2020年3月25日水曜日

【小伝】マハートマ・ガンディーの人生


マハートマ・ガンディーはインド独立を導いた人物、不服従と非暴力を貫いた偉人としてよく知られています。彼の伝記である『ガンディー 平和を紡ぐ人』(竹中千春, 岩波新書, 2018)をもとに小さな伝記をまとめます。
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ガンディーは1869年、インド西部のグジャラート州に生まれた。アラビア海を臨む港町で、ヒンドゥー教の家庭だった。父母は宗教的におおらかで、家にはジャイナ教の僧侶が出入りし、幼いガンディーはパールシー教徒やイスラーム教徒とも交わっていた。この環境が、後年のガンディーの宗教的寛容の土台を作ったのかもしれない。

長じて地元の名門校で挫折を味わったガンディーは、親戚の勧めでイギリスへ弁護士の資格を取りに留学する。ところが、弁護士となって帰国しても、英領植民地であるインドではイギリス人の下働きのような仕事しかもらえない。それを不服とし、無為の日々を送った。

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ある日、南アフリカで働く同郷のひとから弁護を頼まれ、ふと南アフリカに渡る。ここからガンディーの人生は大きく変わった。彼は20代で南アフリカに行くのだが、結局、40代の半ばまでそちらに留まる。きっかけは南アフリカを支配するイギリス人およびボーア人(オランダから入植した人々の子孫)から、アジア人が差別されたことだった。

この人種差別に抗い、インド人の自治を獲得しようと、南アフリカのガンディーは新聞を発行する。また、ボーア戦争での従軍と、現地の民族ズールー人の「反乱」(イギリスの過酷な支配に抗して)における救護の経験を積み、帝国主義の悲惨を目の当たりにした。

そして1906年、南アフリカにおけるインド系移民を排斥する法案の発表を機に、ガンディーは新しい抵抗運動の名前を構想した。それが後世に残る「サッティヤーグラハ」、「真理を主張する非暴力の力」という意味を込めた造語である。こうして、「非暴力」の抵抗がはじまる。

ガンディーは社会運動をはじめ、逮捕され、初めての刑務所を経験する。その後も共同農園を経営して仲間を増やし、「トランスヴァール大行進」(トランスヴァールは地名)に至る。いまでいう「デモ行進」だが、都市ではなく、荒れ果てた大地を長距離、移動するものだ。ここでもガンディーは行進中にくり返し逮捕され、仲間も大勢逮捕されるが、刑務所が彼らを収容しきれなくなり、行進は止まらずに長距離を歩き通す。そうしてついにイギリスの統治者にインド人を排斥する「暗黒法」を改正させた。

この成果を見届けて、ガンディーはインドへ帰国する。次は、英領インドでの「独立、自治」を目指す社会運動の渦中に身を投じて行く。

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ガンディーは貧しい民衆や農民のなかに入って調査、活動し、インドでも「サッティヤーグラハ」を実践する。ガンディーとサッティヤーグラハの名前は次第に有名になり、「会議派」(インドで初めての国民的な政党)の指導者にまでのぼり詰める。だが、彼はいつも党派的にではなく、個人の判断とアイデアでふるまった。

1930年、独立のための「十一カ条の要求」を掲げてガンディーは「塩の行進」のアイデアを出した。長らくイギリス政府は「塩」に課税してきたが、これに抵抗し、恵みの塩を持って海までの長い距離を行進しよう、という案だった。この「塩の行進」は後世にまで語り継がれる大きな抵抗運動となるが、発案当初は仲間の政治家からも拍子抜けだと呆れられたらしい。

民衆を惹きつけ、統率する才覚にあふれるガンディーは「塩の行進」を成功させた。大勢の民衆が気温50℃にもなる土地を3週間歩き、海に到達した。

その後のインドでは、「不服従」を掲げる独立運動が高まりを見せる。しかし、政治家としてイギリス政府や本国と交渉する時、独自に動くガンディーは政界においても世論においても次第に孤立していった。理由は2つある。

ひとつにはヒンドゥーとイスラームの対立があった。「インドの独立」はヒンドゥー教徒を尊ぶ国作りか、それともイスラーム教徒も対等な立場なのか。ガンディーはイスラームも対等とみなしたが、これはヒンドゥー至上主義者の怒りを買い、最後はガンディーの暗殺につながる。

もうひとつはガンディー自身の問題だった。当時、ガンディーはもっとも影響力のあるカリスマ政治家であったが、エリート政治になじまず、常に民衆とともにあった。「塩の行進」から数年後、ガンディーは活動の拠点を郵便も届きづらい田舎に移してしまう。66歳の時だ。このような変わったふるまいは、知的で裕福な層には理解されづらかった。しかし、ガンディーは一貫して、直感が告げる「真に正しいと信じられる行為」のために努力を惜しまなかった。

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1930年代から40年代にかけて、インドの状況はまた複雑になった。単なる「帝国主義のイギリスから独立する」運動があるのではなく、運動の内部にヒンドゥー対イスラームの対立が生まれた。ヒンドゥー教徒が多数の地域では、イスラーム教徒が暴動で被害を受けた。イスラーム教徒が多数の地域では、その逆だった。復讐が復讐を呼び、暴力の嵐が吹き荒れた。

そんななか、ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいっしょに独立をしようと唱えるガンディーは「時代遅れ」とみなされ、とくにヒンドゥー至上主義者から強い非難を浴びた。

1946年、ガンディーは「和解と許し」を掲げ、ベンガル州の東部(現在のバングラデシュ)を行脚する。ヒンドゥー教徒が少数派である地域で、50近い村を裸足で回った。77歳にして過酷な旅であった。そこには暴動の現場があり、焼き討ちにされた村があり、遺体が散らばり、ヒンドゥーの寺は破壊されていた。ガンディーは被害者たちの話に耳を傾け、非暴力を説き続けた。

1947年、インドは独立した。だが、同時にパキスタンがイスラーム国家として独立した。すなわち、分断のない「ひとつの国家」を望んだガンディーの期待は裏切られた。独立の時、ガンディーはカルカッタで暴力の停止を呼びかけていた。

1948年、ガンディーは暗殺者の銃弾に倒れた。裁判において、暗殺者は「(イスラームとの共存を説く)ガンディーのために何百万ものヒンドゥー教徒が拷問のような苦しみを味わっている。俺はそれをやめさせた」と正面切って供述し、悔いるところがなかったという。

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インドの歴史は「非暴力」の実現を見なかったかもしれない。だが、アメリカでは公民権運動のキング牧師やオバマ大統領がガンディーの事績に触れた。世界各地の社会運動でもその名が引かれる。ガンディーの志を継ぐ者が今日も戦おうとしている。