2020年4月26日日曜日

【エセー】死を想え(メメント・モリ)

神秘の詩人 エミリ・ディキンソン
Daguerrotype of Emily Dickinson, c. early 1847

とある若い女性が、癌のため余命一年を宣告されて死の前に書き綴った文章を読んだ。
「あなたならその一年をどのように生きますか」。

これは「死を想え」(メメント・モリ)の問いだ。

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ぼくが同じようになったら、まずは札幌に飛ぶ。行っておきたい喫茶店が三軒ある。札幌在住時代に通ったカフェ・エスキス、珈琲とお菓子 つぐみ、ト・オン・カフェ。

カウンターに座り、マスターとひとしきりおしゃべりする。札幌の夏の光景、冬に雪の中で見た風景を思い起こす。土地の記憶と思い出。

ことさらに会っておきたいひとはいない。

このブログの「愛について」で書いたように、思いがあれば、ひとの心はつながる。たとえ向こうが僕の余命を知ろうと知るまいと。

ただ、電話をかけたいひとは何人かいる。声を聞いて、ふだんのように話したい。メッセージを送る相手もいる。短いメッセージでよい。手紙も、常日頃のように書く。

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ふだん通っている近所のパン屋へ行き、食パンを買う。朝、珈琲を落として食パンに添える。変わらない日常だ。

仕事はする。仮に貯金で生活できるとしても、思いきり取り組みたい仕事がある。だが、もし書評の依頼でも舞い込めば、それも受けてしまいそうだ。

散歩をし、その季節を味わう。

本を読む。とくに詩集を手に取る。詩に憩いたいからではない。死を前にすれば、詩を読む心も変わると思うからだ。最後まで新しい発見をしたい。

音楽はベートーヴェンとバッハを聴くだろう。バッハはちがって聴こえるかもしれない。ベートーヴェンの孤独をよりいっそう愛する。

家にある絵を観る。ポストカード(絵葉書)も。絵はいつも美しい。

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言葉を紡ぎ続ける。死のために見えるものが変わるならば、もっとも真実に近い言葉でそれを表現しよう。

多くのひとは、「SNSなんて、やめるべきだ。死を前にしなくたってそうだ」と言うかもしれない。しかし、ぼくはいつもと変わらずTwitterを開くにちがいない。

そこには面識のあるひとのつぶやきが並ぶ。気に入ったものに「いいね」を押す。ささやかな楽しみ。

家族には笑顔で接しよう。これは余命が五十年でも変わらない。

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最後に、死ぬ時の希望を書いておこう。こんな風にできるのなら──

死期を悟る。そろそろだな、とわかる。畳の上で結跏趺坐(けっかふざ。仏教で組むあぐらのひとつ)を組む。穏やかな表情で静かに呼吸をする。生命(いのち)が身体中に満ちるのを感じる。そして、ゆっくりと息を吐き終えた時、命脈が尽きる。

とあるネイティブ・アメリカンの古老はこのようにして死んだ(結跏趺坐は組まないが)と書物に記されているし、禅の高僧がこうした形で亡くなったエピソードも読んだことがある。

ぼくが同じようにできるかはわからないが、そのように死にたいと強く念じている。

アシニボイン族の男性. アシニボイン族の男性(1909年撮影).
ネイティブ・アメリカンの戦士だと思われる

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「死を想え」のおかげで、生がみちがえる。

哲学者のモンテーニュは「哲学することは死の訓練だ」と言っていた。彼の『エセー』には古今の逸話と淡々とした筆致による日常の考察が並ぶが、文章の全体に死の匂いがする。

いまもまた思い出すのは「君看よや 双眼の色 語らざれば憂い無きに似たり」という言葉だ。死を前にしても、そのような双眸(そうぼう)でありたい。