2020年4月28日火曜日

【本と音楽】ベートーヴェン再来──フルトヴェングラー『音と言葉』



『音と言葉』(フルトヴェングラー著、新潮文庫)は不可思議な科学の色をして色褪せて積まれた本の一冊だった。それを手にとって、フルトヴェングラーの指揮する第五(ベートーヴェンの「運命」)をかけた。

併せて本を開く。

フルトヴェングラーの音の風のなかに吸い込まれる。目は文字を追う。

「ベートーヴェンの人格は、始原的=混沌的な気質と、また調和と透明を求める憧憬(どうけい)との驚くべき混交を表現しています。」

「この嵐と疾風を孕み呼ぶ神が、同時にあの最も深遠、至幸の恵みにあふれた静寂、底知れぬ深淵の敬虔、かつて音となって語られたかぎりにおいて、最も無心に、至高の幸福をもって人を充たすハーモニーの創造者であっただけではありません。」

フルトヴェングラーの「運命」は神がかっており、そこに魔神が降りている。

「あの嵐のただ中、あの怖るべき感動のただ中においてすら、──なんという鋼鉄のような冷静と透徹、なんという仮借のない自己抑制への意志、(……)なんという比類のないすぐれた自己鍛冶(たんや)であることか!」

フルトヴェングラーの指揮は、沈黙を明らかにしていく。ベートーヴェンの音楽は、すべての音が還る沈黙を灰色の空間として広げ、そのうちで浮かび上がるようにホルンが鳴る。

どの旋律もお互いに結び合いながら、連なりながら、なおかつ美しい音の断片であり、断片であるのはそれが無から浮かび上がり、すっと無へ還ることを運命づけられているのがわかるからだ。

フルトヴェングラーは音の粒子を爆発させ、破裂させ、速度をかぎりなく上げていくが、そこに生まれるのは無の時間であり、流れない時が宙空に描かれ、そのなかであらゆる音が鳴りながら、沈黙へと消えていく。

第四楽章が閉じて、余韻に浸る。もう何度も涙があふれていた。

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『音と言葉』において、フルトヴェングラーは「清新なる生命あるものを要求する知識人たち」にただ一つのことを願っている。

芸術は、そこから分かれてしまった科学の分析と合理性によって侵されているが、その科学を拠り所として表現されるべきではない、芸術は有機的な全体であり、ひとつの生命でなければならない、と言う。

「真の偉大さに対する愛、熱狂的な、なんの保留をも付けない献身的な愛情を持つことを、もう一度学んでいただきたい。」

──十九世紀のひとびとがベートーヴェンから学んだように。

「あの一辺倒の思想の怖るべき作用は、ただより高次な、より包括的な思想だけが克服することができます。真の芸術はただ、純真な気圏の中に育つことができます。この純真さをして、第二の純真さ、ただ我々の時代に適応する叡智の純真さたらしめよ、ということを、私は今日責任を負うすべての人々に希みたいのです。」

フルトヴェングラーが望むのは、彼が指揮するベートーヴェンのような芸術に触れた者が、いわばベートーヴェンの気圏のなかから真の思想を生み出すことなのだろう。

フルトヴェングラー没後一年で発行された切手

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フルトヴェングラーの音楽と本からよくわかることは、情熱、無際限の「生命爆発」を半身として持ちながら、彼のもう半身は理知と理性であったということだ。太陽のような炎と、透徹した氷の冷静さと。そこから、垂直の音楽が立ち上がる。