2020年5月30日土曜日

生の目的について



生の目的について考える。

ぼくは『遊戯哲学博物誌』で万物が遊び戯れる様を描いたが、それは目的なき世界、ただただ生成変化の続く世界だった。

世界はそれでいい。だが、わたしたちは、いや、じぶんはどうだろうか?

ほかでもない、このぼくがどう生きるか、という問いだ。
それには、生の目的を定める必要がある。

古代ギリシア語には「テロス」という言葉がある。
これは「目的」という意味でもあるが、「終極」という意味もある。
言ってみれば「ターミナル」(ターミナルケアと言う時の)に近い。

では、生のテロス(目的、終わり)とはなにか?

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生の目的を定めることは、死を定めることに直結するだろう。

生の目的は、達成されない。ある地点まで達成されれば、その次が見えてくる。終わりはない。終わるとすれば、目的ではなく、ぼくの方が終わるのだ。

だから、かんたんに言えば、「この仕事のために命を賭ける」という仕事をみつけることが、生の目的を定めることだ。

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他方、テロスへの道行きは、どうなるかわからない。

それこそ、明日、大きな地震に遭うかもしれず、事業がかなり成功してしまうかもしれず(それはそれで大きな危険だ)、先のことなんてわかりようがないのだから、その時々で、なんとか当たるしかない。

だが、「遊戯」の精神を貫くことはできる。どんなことが起ころうと、へこたれそうになろうと、遊戯して、遊戯して、遊戯するという。

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どこかのアコーディオン弾きの写真。足元の帽子に投げ銭を求めている。
その日暮らしで明日をも知れず。

遊戯するひとも、明日のことは気にかけない。
テロス(生の目的)に向かっていれば、どんな一日であろうと、どんな道行きであろうと、それはすばらしい人生でありうる。

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「エシカル」の語源は、ラテン語の ethica(エチカ)や古代ギリシア語のエートスまで遡る。いまの英語の ethic (エシック)であり、その意味は「倫理」だ。

究極を言えば、「エシカルな生き方」とはテロスを定めてそこへ向かうことかもしれない。