2020年10月25日日曜日

【主に学生さんへ】『緋文字』講義──愛することの神話劇。そして現代へ


先日、アメリカ文学の名作『緋文字』を題材に、高知県立大学の白岩英樹さんと対談形式の講義をしました。その時のZOOM収録では話し切れなかったことも含めて、『緋文字』について語れることをブログにまとめておきます。

なお、内容は普遍性のあることがらなので、「学生さん」でないひとも『緋文字』を知らないひとも、読んでつまらないことはないと思います。

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1.イントロダクション:コロナ禍における恋愛(学生さん向け)

はじめに現代の大学を舞台にして、「『緋文字』の物語は、こういう感じかもしれない」という話を架空に作ろう。

学生のAさんとBさんは互いに恋をした。ところが、コロナ禍でキャンパスは立ち入れず、会うこともままならない。Aさんはなんとしても卒業して地元に帰り、公務員になろうと決意している。他方、Bさんはすでに学費が尽きたのでいますぐ退学して、地元に戻り、ケアの必要な親の世話をしながら、バイト生活をしようと考える。ふたりは離れ離れになるが、経済的な事情や土地の距離からして、もう会える見込みもない。

たとえばこういった先の見えない状況で、なおかつ真剣にお互いを愛することができるだろうか?おおよその例にすぎないが、『緋文字』が問う「愛」はそういう厳しさを連想させる。


2. 劇的な文学(戯曲、演劇的)
『緋文字』は「劇的」であり、古代ギリシア悲劇やシェイクスピアの演劇を思わせる。劇的というのは、シーンとして「ドラマチック」な展開が多いという意味もあるし、描写からシチュエーションの設定まで「あたかも戯曲のよう」に組み立てられた、ある種、異様な小説とも言える。

どこが「小説」らしくないかというと、なにより心理描写が少ない、ないし心理に重きを置いていないところだ。重要なのは、外から舞台を観るように観たら、どう見えるか、ということ。すなわち、行為やクライマックスの演劇的な効果が大切にされていると思える。(多くの19世紀のヨーロッパの小説が、個人の心理の推移に比重を置くのとは対照的である)。

さらにもう一点いえば、社会的な判断や感性が無視されているように思える。これも小説らしくない、と思えるところだ。19世紀の小説はおおむね同時代の「社会」を詳細に描くことが多い。その点、『緋文字』は舞台が16世紀の原初のアメリカに遡るばかりでなく、描き方の手法によっても「異空間」を作り上げる。それによって、登場人物たちは通常の社会的な良識や感性を無視してストーリーを展開する。それはあたかも神話の世界である。


例えると、『緋文字』を読む感覚は、J.S.バッハの「マタイ受難曲」を聴くようだ。両方とも、愛にあふれた者(受難曲ではキリスト)がパッション(「情熱」と「受難」の意味がある)の真っ只中に入る、非常に劇的な骨子をもつ。そのなかで人間は非人間的なほどに、理念的な造形へと高められていく。


3. 間奏曲:いまどきの文化でいうと(学生さん向け)

いまどきの文化でいうと、洋楽でバスティルの “Doom Days” を聴いてみてください。あくまで参考まで!


直接的にどこがどう対応するというわけではないのですが、この歌が歌っているのは、破滅的な愛です。歌詞はこちらで読めます(できれば英語でどうぞ)。現代だと「こんな感じ」かもしれません。

・ちなみに、歌詞の「ブルーピル」は「こちらの世界では死んで、あちらの世界に行く薬」であり、映画「マトリックス」にも出てくるらしいです。
・歌詞の「ウサギの穴」は英語圏では、異世界に通じる場所のようです。


4.『緋文字』は、愛することの神話

『緋文字』は愛することの神話だ。「神話」であるというのは、登場人物たちはみな理念的な存在で、現実にはとても起こりえないようなシチュエーションでありえないような行為するから。その「神話」としての物語において、「愛すること」はどのようなことかが、とくにキリスト教的に問われている。

なるべく一文にまとめると、『緋文字』における愛することは「ふたつの強烈な正と負の感情の間で葛藤し、激烈に苦しみながら、なおかつ一筋の光、神的な導きを求めて純粋に行為をすること、そうすることで人間が人間を超えようとする時に生じる深い情熱と苦難」だろうか。

この最後の「情熱と苦難」が英語でいう「パッション passion」に当たる。また、「一筋の光」云々は、哲学者プラトンの言葉でいえば「イデア」的なものであり、一般的な言葉では「理想」である。

西欧の源であるギリシア悲劇では、「英雄が自分の力によって栄光の高みに上がるが、その頂点で人間を超えた運命によって「破滅」させられる」という作りがある。愛が求める先は、人間の力では本来、届かないものなので、愛する者は必ず「破滅」する。それでも愛に向かう勇気のある者が称賛された。それは叙事詩「イーリアス」の英雄アキルレウスも同じだし、キリストの受難もそうだと言えないだろうか。

アキルレウスは言う。
「パトロクロスも死んだのだ」
(*パトロクロスはアキルレウスの親友)

キリストは十字架上で最後に言う。
「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたもう(エリ・エリ・ラマ・サバクタニ)」

もちろん、ここでいう「愛」は自らの使命、果たすべき仕事、世界や神への「愛」であり、そこへ身を投じることへと高められている。すでに、一対一の愛し合いではない。

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ここで重要な点は、愛する者は「もしかしたら、うまくいくかも」と思って愛するのではなく、最初から自分が成果を手にできないで「滅びる」ということがわかっていることだ。にもかかわらず、愛する者のため、生まれながらに背負った自分の使命のため、または宿命と対決するために、愛する(戦いに挑む。他者や世界のために身をなげうつ)。

こういう愛の姿は、べつだん古代ギリシアの「英雄」にかぎられない。『緋文字』のヘスター、ディムズデイル、チリングワースは名もなき「愛の実践者たち」である。もちろん、私たち誰しもの人生のなかにも愛を問われる場面はあるはずだ。

ところで、愛の結果「滅びる」ことは、文学のなかでは「死」として描かれやすいが、現実世界では、「とてつもない苦悩の底に突き落とされる」という精神的な苦しみのことだといえる。実際の「死」を伴うことがあるとしても。

まとめると、『緋文字』や古典文学における「愛すること」というのは、人間の力では手が届かないとわかっていることに挑み、その結果、敗北し、「滅びる」ことだ。そこから考えれば、人生とは、愛し、滅び、苦しみの底から精神的に這い上がり、もう一度、愛することを始める。そのくり返しになるのだろう。


5.愛することの現代性

以下、警句(アフォリズム)のようなメモで、現代性を見据えながら、『緋文字』に見られる「愛すること」を素描してみよう。

愛は本来、自分自身との激しい闘いを求める。これまでの自己をたえず乗り越えることを求める。なぜなら、愛することが「人間を超えたもの」を求めるかぎり、現在の自分は至らなく、それが苦しくてたまらないからである。

(『緋文字』のディムズデイルは苦悩し続けて、最後に民衆に「告白」をして死ぬ。ヘスターはじっと耐えて、クライマックスの後も、決意とともにニューイングランドの土地に一人で残り、ひとびとを慰め続ける。ふたりそれぞれの愛の実現だ)。

愛するひとは苦しみ、葛藤するが、現実をより深く知る。つまり、表面的な現実に満足して生きることはできない。

愛されることもまた、哀しく苦しく、さみしく、圧迫される感覚を伴う。愛されることは生易しいことではなく、愛することの重みと裏表である。

(この点は、『緋文字』でさまざまに現れるが、一番、美しいと感じられるのは、最後の場面で子供のパールが「悲しみ」を初めて知って涙を流す場面である。それまでパールは「喜び」だけを知る「小さな妖精」だったが、ずっと愛を受け続け、クライマックスでやっと「愛されること」の意味を知り、「妖精」を止めて、「人間」(大人)になる、と解釈できる。)

愛は厳しさのうちにしかなく、優しさは冷たさのうちにしかない。

おおまかな言い方でよければ、キリスト教文化圏における「罪」とは、「愛するが、けっして愛を実現できない」ことの苦悩である。つまり、「愛すること」は「そのへんにあって手に入るものを手に入れる」ということではなく、人間を超えたものに向かうので、必ず苦悩に出会う。さらに、その時に「ひとのせい」や「環境のせい」にせず、「それでも、ほかでもない自分が、愛するのだ」と決意するからこそ、自責の念に駆られる。それが「罪」の概念ではないか。よく「『緋文字』は罪を描いた小説」と評されるのは、その「罪」を明確に描き切ったからだと思う。

愛が「やわらかいベッドに寝転ぶ」ようにハッピーだというのは、幻想である。

現代にも、「愛されたい」という願いはある。が、そのほとんどは、翻訳すれば「ふわふわの甘いショートケーキを優しく食べさせて欲しい」ということか、あるいは「家具の整った家がほしい」(年収〇〇の配偶者)ということかもしれない。

もっといえば、現代の「愛し合っている」といわれるパートナーシップの大半は、お互いに「あーん」をやって先のショートケーキを食べさせ合っているか、エゴの綱引きをしながらどこかで妥協しているか、お互いに実は相手に興味がないが、生活は成り立っているか、そのあたりということもありえる。

愛は厳しいものなので、幼児や子供は親から叱られて躾を受ける(ここで子供は「我慢できない自分」と戦うことを強いられる)。思春期なら、親から愛されることの葛藤が暴発を起こし、反抗期に突入する。そして、一部の(大半の?)大人は「もう愛さないでくれ!愛したくもない。お金を使って遊びに行く」と叫ぶ。

ひとはたびたび、愛から逃走する。すなわち、苦悩や葛藤から、なにより深い人間関係や重い仕事から「自由になりたい」と願って。しかし、その果てには孤立とシニシズムがあるだけだ。

愛を諦めたひと、捨てた人にとって世界はつまらない灰色の曇り空で、ミヒャエル・エンデが『果てしない物語』で描いた崩壊した世界を生む。そこにはかぎりないニヒリズムしか残らない。

20世紀になって、「人間は失われる寸前だ」という趣旨のことをアルベルト・シュヴァイツァーは言ったそうだ。それは『緋文字』のような純粋な愛が、キリスト教世界からほとんど失われてしまったからだろう。

愛することをやめた人間は、孤立する。孤立した人間を見るほど、さみしいことはない。

その様子は、リースマンが『孤独な群衆』で活写しており、ニーチェが「おしまいの人間たち」と呼んでおり、オルテガが『大衆の反逆』で描いている。キルケゴールは『死に至る病』において「絶望」さえできない、もう一段深い「絶望」として、救いようのない現代人としてこれを考えた。また、エーリッヒ・フロムが『愛するということ』(原題:The Art of Loving)や『生きるということ』(原題:To Have or To Be)で描いた大量消費文明の現代社会では愛はほぼ失われている。

もっとわかりやすく言えば、現代の「愛」は19世紀ヨーロッパ以来の「ブルジョワ的な温かい家庭」から派生している。日本で言えば、「マイホーム、結婚と子供、安定した職」を揃えるという昭和以来のモデル家族の愛である(この幻想は令和になっても消えない)。これらは象徴的な意味では、『緋文字』の愛の真逆である。


6.余録:ほかの小説との関連付け
ヘスターがディムズデイルに「ふたりで海を渡りましょう」という場面は、マリーズ・コンデの『わたしはティチューバ』を連想させる。16世紀の「魔女」を描いた小説である。また、同じ場面は、逆にヨーロッパからアメリカに渡った『マノン・レスコー』も思わせる。

日本の小説では、遠藤周作の『沈黙』が思い起こされる。『沈黙』は信仰深いキリスト教徒たちが、悲惨な受苦のなかにあって、神の応答を待ち望みながら、何度も試練に合い、神に問いかけ続けるが、どうしても答えが来ないという「神の沈黙」を描いた作品だ。これは神のもとでの愛の試練である。


7.まとめ(再び、学生さんへ)
ここまで読んでくれた学生さん、ないし読者の方、おつきあいいただき、ありがとうございました。


さて、重い話が続きましたが、最後に学生さんを念頭に置いてやわらかく応援メッセージでまとめたいと思います。

みなさんも、苦しみ、悩むことは多くあると思います。コロナ禍による影響も大きいでしょう。そういう時に、苦悩する自分を「ネガティブになるのはよくない」とか、「悩むのは自分が弱くてダメだからだ」と思わないでほしいです。なぜなら、そういう苦しみや悩みを通して、ひとは本物の愛(『緋文字』の描いた愛)に近づけるのだと思うからです。

愛は、「やわらかいベッド」のようにハッピーではないかもしれず、しかし、かといって「この世界には愛なんて見つけられない」あるいは「私は愛されないし、愛することもできない」ということもありません。愛はどこにでも、いつでも生じうるものです。白岩英樹さんの授業を受けているみなさんは、白岩先生からなんらかのかたちで「愛されている」実感をもつかもしれません。


今回、白岩さんと話している途中で、「うまくやることに興味がない」と僕が発言したところ、白岩さんが驚かれ、そのことに僕も驚きました。白岩さんはその言葉を褒めてくれましたが、僕も改めて考えました。

みなさんの周りに「成功している(ように見える)ひと」がいるかもしれません。そのひとは成功のモデルとしてかっこいいか、あるいは羨ましい、妬ましいかもしれません。

ここまで普遍的な愛の話をしてきましたが、現代社会について言うと「愛さないで、うまくやれるひと」が一番「成功」します。僕はあまりそういう視点でひとを見ないし、外から見てあれこれは言えませんが、たぶんそうでしょう。

少なくとも、19世紀から20世紀はじめの良質なヨーロッパ文学を読んでいれば、そういうひとが一番、苦しんでいません。わりと地位が高かったりもします。いまも変わらないのでは、と思います。


「え、ちょっと待って。じゃあ、愛するとどういう「いいこと」があるの?」

と思われるでしょうか。ここを読まれている方は、たぶんそう思われないと思いますが、一応、答えようとしてみます。

本当の答えは「いいことはひとつもない」が誠実かな、という気がしますが、やっぱりなんらかの「いいこと」があってもよいとも思います。

僕の浅はかな経験からですが、

・自分が、生きていてすがすがしい。
・人生の深みを知る、よい友人に出会える。
・人間として成長する実感がもてる。

こんなところでしょうか。

「すがすがしい」というのはいいですね。愛することは真剣に生きることなので、いわゆる「悔い」がないです。といっても、滅んでから苦悩する段階では大変、悔やむのですが、人生全体を振り返った時にはすがすがしいです。なお、仕事も愛に基づいてやるとすがすがしいと思います。

「友人」のところは実は難しく、これは「一生つきあえるよいひとができる」という意味では必ずしもないです。お互いに愛を知るからこそ、衝突もし、別れもし、苦しみもします。でも、人間関係の全体において、人生を深く知るひととつきあえるようになるとは、感じます。

「人間としての成長」は、これが一番、大きいかなと思います。僕にもはっきりとはわかりませんが、「人生の目的」というものがあるとすれば、そのひとつは「人間として死ぬまで成長し続けること」だろうかと思います。精神的な意味での成長です。魂、と言ってもいいです。

(インドの偉人にマハトマ・ガンディーがいますが、「マハトマ」という称号は「大きな魂」という意味ですね。)

本当に、ひとを責めるつもりはないし、その資格も僕にはまったくないのですが、「せこい」のはイヤじゃないですか。「うまくやる」って「せこい」感じがしますし、「愛さない」としたら、人生でなにをするのか?なんのために生まれたのか?と思いませんか。

(ちなみに、『緋文字』ではチリングワースという悪役が「うまくやって」います。物語の大部分で、彼は自分のプラン通りにものごととひとを動かします。しかし最終局面で、チリングワースは生きる目的を見失い、しょぼくれて、みじめに退場します。「うまくやる」人間の末路なのか、と僕は感じました。)

『星の王子さま』の「目に見えないものが大切だ」というよく知られた台詞を持ち出すまでもなく、文学を専攻されているみなさんは、古典というのはなにを読んでも、「心」や「精神」を大切にしていると実感されていると思います。そういう目に見えないけれど大切なものの豊かさが、「人間としての成長」の尺度ではないでしょうか。

以上で、「いいこと」の話は終わりです。

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最後に「慰めの言葉」を置くというのも、本気でやる文学の議論としては締まらないですが、どうかみなさん、じぶんを大事にしてください。じぶんには価値がないとか、根本的な自己否定とか、しないでください。じぶんを批判的に見られるのはすぐれたことですし、修行のように鍛える時期も必要でしょう。けれども、いまある苦しみや挫折、精神的な敗北の経験は、必ず「愛すること」というかたちで活きるはずですし、活かせます。

そして、「愛すること」は常に相互的なものなので、目には見えなくとも、愛はじぶんのなかにも生まれ、じぶんを育むだろうと思います。

まあそんな感じですが、おおげさに「愛することだ!!」とならず、なんというか、ここに書いてあったことも忘れて、ふつうに生きていけばよいと思います。さんざん厳しいこと、きついことは書き終えたので、じぶんに優しく、ひとにも優しく、楽な気持ちで人生に楽観してください。

ラストが一番、お説教ぽくなってあれですが、このあたりで終わろうと思います。


エシカルSTORY 代表/編集長
木村洋平より