2021年1月2日土曜日

3日後の私(一瞬と永遠)

12月にNECユーザー会から取材を受けた時に、20代中頃の話を聞かれ、

「それで、その後のキャリアをどうしようと考えていましたか?」

という質問を受けた。すこし考えて答えた。

「当時は、3日後には生きているかわからない、と毎日感じていたので、3日後より先のことは考えていませんでした」


*記事は公開済:https://jpn.nec.com/nua/my-chronology/18/index.html

 ***

その頃は、闘病がきつかったために「3日後の命はわからない」と考えたくなったのかもしれないが、実はいまもその感覚が変わらない。

といっても、「希死念慮がある」とか「周りの世界がリアリティを持たずに感じられる」とか「自分の存在が希薄だ」といったことはない。

むしろ、精神的には「今」を生きており、「ここにある」感覚が強い。希死念慮はなく、周りの世界はリアリティに満ちており、自分の存在は確固たるものだと感じている。


歌う花

そうだとすると、「諸行無常ですか?」と問われそうだ。

すべてはうつろいゆき、空しいものであるから……と。

諸行無常は、真理として受け入れるけれども、自分の感覚としては「方丈記」(よどみにうかぶ泡沫:うたかた)ではない。


ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、こう書いている。

「永遠を、時間の永続ではなく無時間性だと考えれば、今を生きるひとは永遠を生きる」

この感覚に近い。諸行無常というより、もっと肯定的に、「無限を生きる」意志かと思う。

僕は、3日後には生きていないかもしれず、塵となって宇宙を漂っているかもしれないが、にもかかわらず、今ここを無限に向かって生きているならば、この「一瞬」の生(現世の生)は永遠と同じだと感じる。


落ちる水のきらめき

音楽を聴いている時に、ぐっと引き込まれて音楽と一体となる経験はないだろうか。あれは、永遠に近いと思う。

僕は楽器を演奏している時、時間がぎゅっと凝縮されていくのを感じることがある。音楽そのものになっていくような。



比喩として聞いていただいてかまわないのだけれども、生まれる前に「この世界を味わう」ということを約束したように思う。

この世界、というのは泡沫の現世だけれども、それは「一瞬」だとしても、そうではない。そうではなくありえる、と。

つまり、空しくはないと。


くー15「こういう風に開かれた世界を森羅万象と呼べる。そこではなにも分けられておらず、「これはこれ」「それはそれ」と言われることがない。森羅万象は、存在が始まる手前にある。」

(拙著 『遊戯哲学博物誌』より。「くー15」は文章に振られた記号)


しー26「万華鏡遊びを、「終わりなき展開」と考えることもできる。地球という無限の精神も、万華鏡の底の模様のように、展開をやめず、いつまでも新しい精神になり続けるのかもしれない」


てー57「それは、生の遊戯の楽しみだ。どこまでも多彩な Lebenspiel の世界を旅してめぐり、味わうこと。これが、終わりのない喜びとかぎりない種類の感覚を覚えさせる。」


Lebenspiel(レーベン・シュピール)は木村の造語。ドイツ語で「生の遊戯」。文法的には Lebensspiel(レーベンス・シュピール)が正しい、と後で教わる。



こういう森羅万象のなかを生きるならば、それは今を生きる永遠になりうる。そんな風に思う。