2021年1月13日水曜日

料理人と、誰かの幸福



今日は夕方、3人分の炒飯を作っていた。大きめのフライパンに具材をたっぷり入れる。

その前に料理人たちを取材した記事を読んでいた。

「料理人は寡黙で、自分の意見を強く主張しないひとが多いが、コロナ下でも変わらず、客に向き合っている、社会に対峙している」という話だった。

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おととし、ある講演で聞いた話に、「幸福はそもそも他人に対して願うもの。自分に対して願うのではない」という話があった。


同じことを健康についても言えるかもしれない。

炒飯に火を通し、卵を割りながら頭で健康のことを考えた。

「この炒飯も、父や母が食べて健康になってほしいと思うものな」

隠し味はシナモン。シナモン(肉桂)は毛細血管の流れをよくして冬に体を温める。




僕は、自分の健康を管理するが、それは活動のためであって、健康そのものが一番尊いとは(自分については)思っていない。だが、ひとに対してはちがう。


身近なひとに対しては、ただただ健康であってほしいと思う。

最後に願うことはほとんどそれしかない。ふたりの祖母もよく別れ際に、「健康でいてね」と言ってくれた。先日、亡くなった方も「洋平くん、健康に気をつけて……」というメッセージを遺してくれた。




最近、新聞で読んで印象に残った話。

中学生の寄稿だった。彼女のお母さんは看護師として、コロナ患者を受け入れる病院に勤務している。

毎朝早くに出勤する母を見送る時、誇らしさと不安が入り混じり、言葉が出ない。小学生の妹は隣で泣いている。そこで母から掛けられた言葉が、

「私の事を想うなら、あなたのことを一番大切にしてください。」

だったそうだ。
(2021.1.4. 朝日新聞 朝刊)




できあがった炒飯を父の器に盛りつける。


僕の入居しているシェアオフィスは、飲食業を主軸にする会社が運営している。コロナ下で料理人たちが願うのは、やはりお客さんが喜ぶ顔とお客さんの健康かもしれない。

そうして、皿といっしょに「あなたの幸福」を差し出す。



自分の幸福よりも、誰かの幸福を考える。そういうひとこそ、僕には幸福に見える。
──メーテルリンクの「青い鳥」を思い出す。「幸福」が足下にある、というのはそういうことだろうか?と考えた。