2021年1月11日月曜日

ヴィトゲンシュタイン vs 社会科学──そして、バガヴァッド・ギーターと般若心経はどこへ向かう?


『論理哲学論考』(L. Wittgenstein著)の倫理は、社会科学とどう切り結ぶだろうか?
そして、私たちはこの社会のなかをどのように生きていくのだろうか?
***

『論理哲学論考』はあらゆる「一般法則」、さらに「理論」を拒否している。

ヴィトゲンシュタインは、この本のなかで、「論理の一般法則」を明らかにした。

論理というのは、「1+1=2」のようなことで、もっと根底にあり、「AならばB」かつ「A」より、「B」が導かれる、そういう法則だった。



さて、ヴィトゲンシュタインは、「世界のあらゆるものごと」(事実の総体)は、「論理の一般法則」にしたがう、と示した。少なくとも、そのように記述できる。それで十分だった。

ここで重要なのは、逆に、「論理の一般法則」以外には、一切「法則」はない、ということだ。したがって、なにかに当てはめる図式も、理論もない。

したがって、「自然科学」と私たちが呼んでいるものも、すべて「論理の一般法則」のなかで記述される。

「4.11 真である命題の総体が、全自然科学(自然科学の総体)だ。」

(「4.111 哲学は自然科学ではない。」)
*拙訳

* 哲学のみが、論理についてメタ的に語るので、それはすでに自然科学ではない、ということ。


さて、「論理」に話を戻すと、ヴィトゲンシュタインの言い方にしたがえば、「論理だけがこの世界で正しい」かのように聞こえる。

だが、それはちがう、と『論考』は言う。

なぜなら、「すべてに妥当し、すべての根底にある正しさ」である「論理(の一般法則)」は、すでに「正しすぎる」ので、すなわち、それ以上の審級(レベル)において「正しい/誤り」を言うことができず、もとから正しくしかありえないので、論理について「正しい」と言うことは意味がない。

こうして、世界から「一般法則」(や理論)はみな、消える。


あとに残るのは、「倫理」であり、『論考』は倫理の超越性(それは世界を統べる論理のさらに上、ないし別の次元にあるから)について語って終わる。

倫理、つまり、「いかに生きるべきか」「どう生きるのがよいか」である。

ここまでの話は、ずっと以前から『論考』の解釈において定説だった。

新しいことはなにも(上の文章で)つけ加えていない。

しかし、ここから「社会科学」について考えてみよう。

さきに「自然科学」について触れたが、『論考』は社会科学についてはコメントしていない。

以下、ざっくりと語るけれども、社会科学は社会のなかの人間の振る舞いについて分析し、「理論」や「法則」を見出す学問である。

たとえば、「1時間1000円の仕事」と「1時間10万円の仕事」で、どちらも同じくらいの負荷でできるならば、ひとは「1時間10万円」の方を選ぶ。

これは経済学である。

社会学も、「大学教授のような身分ある職業に就き、山登りをする」か、「ゴルフをするエグゼクティブになってタワーマンションに住む」とわりと幸せだと言っている。

* ブルデューの『ディスタンクシオン』は面白い。

ナッジ理論(行動経済学)も、「ひとは経済合理性だけでは動かない」という理論も、「一見、合理的でないものを、いかに新しい合理性(説明する理論)に落とし込むか」という話になっていると思う。



ある精神科医が、ずいぶん老いた方だが、「昔は、私も現象学(哲学)を勉強したりしていた。いまの精神科医はそういうの、学ばないのだろうね」と語り、「経済学はチンパンジーがする学問だよ」と言って、穏やかに微笑み、小さく笑い声をあげた。

社会科学はおおむね、「どうしたら、私は損をせず、得ができるか」を考え、「人間はみな、損得をベースにして、おおまかな法則にしたがって社会で行動する」という合理主義に基づいている、ように見える。

*歴史の研究を除く。一部の文化人類学も除く。その他、例外はあるにちがいないけれど。


お金と時計


ヴィトゲンシュタインが仮に「社会科学」も、『論考』で論じるべきだと考えたなら、こうなるだろう。

もし、社会科学が人間の行為を「法則のもとに置く」のだとしたら、

1.その法則を「論理」のもとに包含するか、

そうできなければ、

2.その法則を無化するように、ひとは行為しなければならない(=muessen)、あるいは、そう行為するにちがいない。(=muessen. 英語の must.)

だから、『論考』の精神にしたがって考えれば、「倫理」的な行為においては、社会科学が立てそうな法則にどれも囚われることなく、行為することがいる。

これは、すごくかんたんな話であって、「こうすると損するからしない」とか、「みんながそうしているから、私もする」という判断基準を捨てる、ということだ。


このことは、たとえば愛されるインドの古典『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナがアルジュナに説くことといっしょである。

バガヴァッド・ギーター(神の歌)は、戦場に行くのをためらうアルジュナ王子を、神の化身クリシュナがさとす話である。

アルジュナは迷いを抱え、さまざまな質問をクリシュナに寄せるが、クリシュナ(ヴィシュヌ神)は丁寧に応え、世界の真理を解き明かす。

そして、言っていることは結局ただひとつ、「行為の結果をかえりみることなく、行為せよ」となる。

「それがサンニャーシャ(放擲 ほうてき)である」と言われ、また「己の義務を果たすヨーガである」(アルジュナはクシャトリヤ、戦士階級の生まれである。だから、戦う)とクリシュナは説得する。



また、「般若心経」においても、世界が「空(くう)」であることが説かれたあとで、ギャーテイギャーテイハラギャーテイ、に向かう。

おそらく、「彼岸へ行け。ただ行為して、彼岸へ行け。ほかの一切は関係ない」という思想だと思う。

***

以上、3つの思想を巡ったが、言っていることはどれもシンプルだ。

もし、現代にクリシュナがいれば、

「損得はあとでよいから、あなたがやるべきことをやりなさい。これだ、と信じることを為しなさい」

と言うだろう。

(伝記にはそういう記述がないが、僕はヴィトゲンシュタインは『バガヴァッド・ギーター』を読んでいたと思う。)


以下、『遊戯哲学博物誌』からの引用である。

「のー3 倫理をもつひとは、人生に対してだけでなく、ひとつひとつのおこないについても、ある姿勢をもって臨む。それは「ただそれがよいと思われるがゆえにそうする」という姿勢である。」

「のー4 この「よい」は、とくに「なにかにとって」よい、という意味ではない。「わたしにとって」よい、「誰かにとって」よい、「社会にとって」よい、「共同体にとって」よい、など。」

「のー6 よく喩えに用いられる言葉で言えば、倫理は「うちなる声」にしたがう。どんな理由よりも 先に、ともかくそれをするのがよい、と告げる霊感のようなものにしたがってふるまうこと。(せー35)」

*最後の(せー35)はリンク。『遊戯哲学博物誌』の節(断章)は互いにリンクしてネットワークを作っている。


また、

「のー7 倫理には、規準を定められない。行為を選ぶための「規準」。それはあらかじめ与えられた 規範であり、行為のよさを計る定規みたいなものであるが、倫理にはそういうものはない。」

「のー8 たとえば、「これこれのおこないは、世の中で模範的とされているから」という理由で、行為を選ぶひとは「規準」にしたがっている。あるいは、「道徳として親から教わったから」。(やー 38)」


もちろん、損得の計算も「規準」づくりにすぎない。


こうして、僕らは自由の境地、遊戯の状態に至る。

それは、経済学も社会学も包み込んでいる。さきには、ちょっとひどいことを書いたが、もう損得勘定をしてもよいし、社会科学もウェルカムだ。

というのも、「お金儲け」や「損得」や「社会科学」がダメだと言うのは、それをよいと言うことと、同じコインの裏表だから。

遊戯においては、Anything goes(なんでもあり)だ。

スナフキンが立て札を抜くのといっしょで、禁止はなにもない。



僕もルイボスティーを飲みながら、「スタンレーの水筒がほしいなあ。いまのはパッキンこわれちゃったからな」と3日くらい思っているので、チンパンジーより高尚なことはさほどない。

そう、そんなに偉大(グレート)でなくてもよいのだ。


「小さな仕事に誠実でありなさい。そこに強さが宿るのだから」

──マザー・テレサ


必要なものは、「愛とユーモア」ではないだろうか?

タイトルと出だしから、だいぶ逸れた気がするけれど、文章を終えよう。