2021年3月10日水曜日

優しさと傷だらけの愛


優しさと傷だらけの愛について。僕の家族について。とあるエピソード。
そして、ソウル、パッション、優しさと遊戯の生。

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優しさはすれちがい、摩擦し、傷つける。それでも不動の優しさをもっているかのように、振る舞うひとは優しい。愛がある。

他方で、どんな時も介入しないような、一見、優しくない愛もある。そのひともやはり痛みを耐えている。

愛は無傷ではいられないし、愛の深さは外からはわかりづらい。

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僕の父母はちょうどこのふたりだった。

母はとことん優しいひとで、あらゆる世話を焼いて子どもたちを見てくれた。

父はとことん無介入で、ほとんど子育てに関心を示さなかった。


父は頑固で気難しく、昔気質でもあったので、母とはそりが合わない。

家族がばらばらになりそうなほど、緊張や相互監視や言い争いが高まった時期も長かった。

当然、子どもたちもそれで心身健やかでいるのは大変なことだった。


ともあれ、長い時間が経って、母からは変わらない優しさを、父からはなにがあっても動揺せずに見守る眼差しを、受け継いでいるように思う。

母のようには優しさを尽くせるわけでもなく、

父のように無言のうちにあらゆる苦難を耐え抜こうとできるわけでもないが、

僕には僕のバランスがあるし、本当の部分、核心の部分は、血とともに受け継いだと感じる。

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余談だが、先日、あるイベントで20代後半のひとが話していた。

「私は誰も一切、信頼も、信用もしない。そう決めて生きている」

「20代の前半まで、"このひとなら信頼できるかもしれない" と思うと、全面的に寄りかかるようになり、結果、裏切られたと感じる、ということが続いた」

「だから、もう私は誰も信じない。そうすると、楽です」と。


それでも、仕事は社会のルールにのっとってするし、コミュニティや課外活動にも参加する。その場で、つまらないとか、このひとは合わないと思ったら、無言で去る。

僕が、「その0か100か、という考え方は、周りのひともそうだと思いますか?」とたずねると、

「はい。私は0か100かだし、同世代も、自分より下の、学生さんたちの世代も、そういうひとは多いと感じる」と言う。

僕はいくつかのJ-POPソング(YOASOBI, yama, King Gnu(キングヌー))を思い浮かべた。

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最初に書いた、優しさをもってかかわり続けること、あるいは愛するがゆえに突き放すこと(でも切り捨てるのではない。遠くから気にかけている)、そういうことが、1月に書いた「ソウル、パッション、優しさ」だと考えている。

新年のご挨拶──ソウル、パッション、優しさ

はっきり言うけれども、ソウル(魂の力)、パッション(情熱と受難)、優しさをもって生きても、なんの得もしない。

仮に、長期的にはよい関係が生まれても、いつもそうではない。その時は相手を傷つけることもあれば、にこやかで心地よくいられないこともある。二度と会わないこともあるだろう。

では、なぜ優しくしたり、愛したりするのか。
それはひとそれぞれだろう、と思う。


そして、ソウル、パッション、優しさに、なんらかのかたちで、生きることが人間の証だと思う。

それが遊戯の生である。

なぜなら、遊戯は自由であり、社会で「うまくやる」とか「利口に立ち振る舞う」ことを目的にしないから。

誰もかれも遊び戯れている──