2021年3月15日月曜日

〇〇が広く知られていない時に、必要なのは「教育」なのか?

 

昔、学生時代に「法律を学ぶことの重要性が、日本では知られていない。どうすれば広まると思うか?」という問いに「教育を変えること。義務教育や高校で、法律を教えること」という回答を聞いた。

同じことが、今もくり返されていると思う。

「〇〇(の問題)の重要性が、広く知られていない。どうすればよいか?」

「教育を変えなきゃ」

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たしかに、これが有効である場合は多々あり、

たとえばフィンランド(かスウェーデン)の性教育は、日本のように性行為を隠すのではなく、図書室で本が読めて、写真も見られる(モザイクもかかっていない)ような、オープンな環境でおこなわれているらしい。

(Twitterとnoteで つるたま さんが発信されていた。)

そういう教育があることで、未成年がセックスを過度に重視したり、性的なことがらでひとを傷つけたり、なにより自尊心が低下する(自分は性的におかしいのではないか?)ことが、減るようだという。

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他方で、人生に深くかかわる問題に、教育は有効ではあっても、全面的に頼れない場合は多いと思う。

正解のない、答えのない問いを生きるために、なにが役に立つのか。


詩人の田村隆一は、

「極端に言うと──。

自分が実際に経験した辛いこと、痛いこと、面白いことを素直に次の世代に伝えるのが、教養なんだよ。いろんな本から引用してしゃべることを、ぼくは教養と思っていない。」

と言っている。


僕が思うのは「知る、教える」の代わりに「聞く、物語る」が大切だということ。

「教育」が、もし「知識のかたまりを教え込むこと」ないし「知識のかたまりにアクセスできること」だとすれば、それはインフラであって、先の田村隆一が言う「教養」ではない、と思う。

本当に役に立つのは、先人が「実際に経験した辛いこと、痛いこと、面白いことを素直に」伝えてくれること、その物語だろうと思う。

それを伝えるのは、「パッケージ」化された知識ではなく、物語る行為であり、その行為をかたちにした本でもあるだろう。

Webサイトでもありうる。そういうサイトに、エシカルSTORYを育てたい。