ムスカリと土筆。春ですね。 |
連作詩として、このブログに掲載してきた「ポイボス・ポイエーシス」の紹介です。
1〜6まで全六歌を、かんたんに解説します。
連作詩「ポイボス・ポイエーシス」の導入です。
世界は、もう19世紀末のヨーロッパからそうですが、暗く、不安に覆われて、神や信仰をなくしました。それからは、お互いを批判的に冷たい眼でみる、人類の相互不信がはびこっています。
──こうした、ネガティブな状況に対して、「明るい創造」をなそう、という趣旨でこの詩が生まれました。
ポイボスとは、「太陽の」といった意味の古代ギリシア語です。
ポイエーシスは、「作ること」全般、とくに「詩作」をいいます。やはり古代ギリシア語です。
古代ギリシアは、人間性の明るさと強さが太陽のように輝いた時代でもありました。
それにちなんで、「明るい創造」「太陽の詩作」(=ポイボス・ポイエーシス)である詩を歌おう、と始まります。
第一歌の後半で、「怒り」の話が出てきます。
これは、ポイボス・ポイエーシスの目指すものが、「単なるネアカ(根が明るい)な、ラブアンドピースでハッピー」とはちがうよ、と示しています。
やはり、この暗い、崩壊に向かう世の中に対する、なんらかの怒り、立ち向かう気概がなければ、「明るい創造」はなしえません。
その明るさと厳しさは、裏表なのです。
ここはヨーロッパの歴史(と日本の現代史)にかかわります。精神史です。
ざっくりいえば、18世紀までヨーロッパには「神」がいて、キリスト教信仰がありました。
フランス革命のあと、ブルジョワジー(中産階級)が台頭して、安楽な暮らしに流れる風潮が生まれます。これが19世紀です。
20世紀初頭には、もはや人間は「神」を失い、路頭に迷ったような、人格の定まらないものとなり、あとは飲めや歌えや、気晴らしに生きる、退廃がはじまります。
以上は、ヨーロッパ、アメリカの精神史ですが、大正から戦後、平成の日本も同じでしょう。
第二歌の冒頭の、夜の街で飲んで騒ぐ場面、そして「ほどほどがいい!」という安楽な暮らしに満足して、それ以上の高みを求めない人々の姿は、この精神史の末路です。
ところが、「ブルジョワ」はダメだ、という話でもありません。
そう単純ではなく、ブルジョワというあり方は、実際にはほとんど実現されず、稀です。そして彼ら彼女らも、時には、その余暇や力を使って、より高いものを求め続けるのです。
そうした、いろんな意味で、多くのひとはブルジョワに憧れます。
こうして、ブルジョワは、神と、末路の人々の間にいる、「天使」とも呼べるのです。仮に、ということですが。
そして、大切なのは、お金と社会的な地位において、ブルジョワであるかどうかよりも、退廃や労働&娯楽に飲まれず、なんとかしてより高いところへと、志や理想に燃えることです。
そういう「天使」的な人間になろうとしたのが、たとえば、20世紀の詩人リルケや思想家のベンヤミンでした。
だから、そこに希望はあります、21世紀の今も。
誰しも、うちひしがれる時はあります。人生の黄昏時なのか、夜かもしれません。
第三歌の冒頭は、街でくたばりそうな感じですが、
途中から、ふたつの映画が混じっています。
『ベルリン、天使の詩(うた)』という名画と、
2015年頃に公開された、コーヒーをめぐる物語(ドイツが舞台。タイトルを忘れました…)です。
さて、その後で、ファンタジーの方へ話が振れます。
それはつまり、社会的に落ちぶれる(お金や地位がない)ことも、たしかにつらいのですが、本当の問題は、常に精神の領域にもかかわる、ということです。
社会の物質的な条件と、純粋に精神的なことがらと、その間にあるのが、「現実」だといわれます。
物質や社会が「地上」で、精神的なことが「天上」だとすれば、その間の物語として、現れるのが「物語化された現実」です。ここを、私たち人間は生きています。
ここで、転調するように、明るく生命が言祝がれ(ことほがれ)ます。
これは、なぜかといえば、第二歌、第三歌でみたように、社会的な現実は厳しいものです。そこで、なにができるかといえば、「生命を育む、生み出す」ことです。
しかし、「生命を育む、生み出す」は、子供を育てたり、植物の種をまくことばかりではありません。
絵を描く、または音楽を聴く、といった、表現行為は、受け取ることもふくめて、すべて「生命」を生み出しているのです。その瞬間、その瞬間に。
その輝きが、高らかに、高らかすぎるほどに、歌われます。
──たとえば、隣のひとに挨拶し、笑顔で、そのひとの話に耳を傾け、ふんふんと、よく聞くこともまた、生命的な行為なのです。
そこに、喜びと生命が、生まれるのです。
また様子が変わり、鳥が天へ向かうシーンから始まります。
これは、「生命の表現」を歌った第四歌が、あまりにも天を目指し続けていることから、来ています。
「そんなに天上的な世界を目指して、大丈夫なの?」
「地上的なことが、おろそかにならないの?」
「地に足がつくの?」
という疑問が、この歌の前半に表れています。
それに対して、回答はこうです。
「ひとは、天上へ向かえば、向かうほど、実は、同時に大地に深く、深く根を下ろすのだ」ということです。
大地とはなにか。
それは、父祖からの伝統であり、母なるものに育まれた私たちの命であり、そして、日々の当たり前の生活なのです。そこに深く根ざしてこそ、天を目指すこともできます。
このような両極の行き来は、実は第一歌で歌われた、「明るい創造と、怒り」と同じです。
「明るい」ものだけが存在するわけではなく、明るさは「怒り」その他の悲しみやネガティブなものと、併存していました。
併存しなければ、本当には存在できないし、力を持たないからです。
ここでも、天へ向かう生命の表現は、大地に根ざした日々の暮らし、と同居しているのです。
ここで、歌はいったん終わります。
第六歌は、短いものです。「世界のなかで生きる、創造する」話ではなく、「ことばによる伝達」について。
ことばは、音声や文字としては、届きますし、一応の理解もできるのですが、その「真意」はいつ届くのでしょうか?
10年前に読んだ本が、そのあと読み返していないのに、ふっと思い起こされ、今の真実を照らしているように思うこともあります。
5年前に聞いた言葉が、ずっと残っていて、そのひとが亡くなったり、もう会わなくなったりしたあとに、ずっしりと心に沈んで来ることも。
もちろん、ことばの「真意」が、最初からひとつあるわけではないですが……。
そして、光速より速いものは、存在しないとされますが、その光がアンドロメダ銀河から届くのに、250万年かかります。
同じように、ことばも時間がかかるのかもしれません。
たとえ、このように「解説」をつけたとしても、この詩もまた。
ありがとうございました。