2021年6月4日金曜日

世界を苦しむ - suffering the world


僕は、世界を思うと苦しくなることがある。

高校の頃から、哲学をしている時にそうだったが、よくよく思えば、いつでも世界を思い、世界に思いを馳せれば苦しくなっている。

政治・経済・社会的な意味では、僕らは自分や家族を養うために働いて、食べて、世話をして、身近な範囲に生きる。

そういう意味では、「世界を苦しむ」suffering the world ことはなんの役にも立たない。

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そういうひとは、今どきの心理学やトレンドでは「〇〇障害」や「生きづらいひと」と呼ばれるだろう。

けれども、アウシュヴィッツから生還した精神科医、V.E.フランクルはむしろ、あてのない苦しみのなかに「生きる意味」を探した。

人間の歴史では、長い間、世界を苦しむことと地上の掟に従って生きることのバランスが問われていたのだと思う。

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「世界を苦しむ」ことは、外の世界に対して深い関心を持ち、感受性を向けるという意味で人間として肯定的なことだ。

自分が「いい思い」をして「いい暮らし」をしたいだけであれば、世界を思っても意味はない。それを超えてひとがものを考える時、世界を思う。

そして、世界を思えば、他者の悲しみやつらさに触れて苦しくなる。

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古代ギリシアの悲劇や叙事詩から、19世紀の小説に至るまで、洋の東西も問わず、文学はそれをテーマにしてきた。

もっと言えば、宗教もそういう苦しみについて向き合うこと、そのものだった。キリスト教、仏教、古代インドの『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)もそうだ。

近代でも、ベートーヴェンは世界の苦しみを背負って、歓喜を求めたのだと思うし、その孤独に耐えた。また、英雄や聖者でなくても、多かれ少なかれ、ひとはそうしてきた。

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「世界を苦しむ」ことは、よいこと(善行)ではないし、あえて褒められることでもない。けれども、人間ならばその根に持っている普遍的なことだ。

そう見ることは正しい。

ひとが「世界を苦しむ」のは当人の欠点でも、社会からの逸脱でもない。

本当は、世界を苦しむ方が、人間のルーツなのだ。

そこに確信を持てず、「世界を苦しむ」ひとは孤独であり、今、この世界で一番苦しんでいるのではないかと思う。