2013年6月26日水曜日

爪切りのあちら側、こちら側


爪切り、というのは、100円でも売っているあの爪切りのことで、パチパチ爪を切るあれのことなのだが、今回は、旅と爪切りの話をしたい。

僕は、長い旅に出ることがたびたび、あった。いまは、2泊3日くらいが多いが、以前は、十日とか、二週間、西日本や北海道を放浪した(り、ふつうに旅行した)。そこで、必要になるのが爪切りだ。どうも気になってくる。二週間も旅をすると、爪が伸びてくるのが……。

ふだんの生活で、どれだけのひとが、爪切りの存在を、というか、爪を切る間隔を気にしているのかよくわからない。僕も、以前は、爪切りの存在なんて気にしたことがなかった。空気を呼吸するみたいに、伸びて来たら切っていた。それが、十日おきなのか、一ヶ月に一度なのか、わざわざ考えない。

けれども、旅をしていると、人間の爪は、二週間ほどでも、ちょっと気になるくらいの長さには伸びることがわかる。旅に出る直前に、いつもきちんと切って出掛けるわけでもないし、旅の間に爪切りが必要になる。そういうとき、ホテルなり、宿なりに借りて切る。

僕は、長旅をし始めてから、爪を切る間隔(の短さ)を意識するようになった。そして、もし、マルチツール(はさみやペンチやピンセットやドライバーなどがくっついた持ち運びツール)に爪切りのついているモデルがあったら、ほしいほどだと思った。……

そんな経験から思うのだけれど、(飛躍させて言えば)爪切りのあるところに、定住がある。僕は一人暮らしを始めて、爪切りを買った。それは、どこか安心感をくれた。いつでも爪を切れるという。

とても小さなこと、とても些細なことだ。だけど、僕にとっては、途中で爪を切る旅が長旅だったし、爪切りのある生活が定住である。だから、もし、爪切りを自分で持ち運ぶような、長い長い旅をするようなことになれば、旅と定住の境目がわからなくなってしまうだろう……家を捨てて、家財道具のひとつとして、爪切りをもって、放浪生活を始めてしまうかもしれない。

なんてことを考えたりする、六月の札幌は、涼しく晴れた空が紺碧に染まってゆく黄昏時です。

村上春樹の卵


村上春樹は、自分の書く態度について、「固い壁と、それにぶつけられる卵があるならば、僕は卵の側に立ちたい」というようなことを述べた。

この比喩は、作家としての姿勢のみならず、ものの見方を表していると思う。片方には巨大な壁のように立ちはだかる「固い」現実があり、それの前で、弱い人間はぐちゃぐちゃに潰されてしまいかねない、という構図だ。

村上春樹の文章は、けっしてセンチメンタルではなく、むしろ、現代アメリカ文学、そしてハードボイルド小説に影響を受けただろう、ドライで即物的なスタイルで書かれる。けれども、内容を追うと、文体からにじみ出るようにして、人間のもろさが露呈する。村上春樹にとって、人間とは、「幻想」的なほどに "Fragile" (もろさ、はかなさ、壊れやすいこと)だ。

たしかに、厳しい現実の前での共感はある。だが、その共感の世間的な大きさは危険でもある。「ほら、人間ってこんなに弱いのだよ。わたし(たち)はもうこわれそうです」と言いたくなること。

むしろ、「卵を茹でてみたらどうだい? 意外に、現実のなかをころころ渡っていけるのではないか。壁にぶつかったって、砕けやしないで。そう、コロンブスの卵みたいに」。書き手としての僕は、代わりに、そんな風に言いたい。

身の回りの世界を、超越的な「固さ」をもつ壁へと変貌させて眺めることから、離れること。幻想的な弱さから、現実の弱さへと踏み出すこと。そこから、強さを得るための具体的な一歩を進めること……。

2013年6月23日日曜日

【俳文】札幌便り(8)


松落葉ベンチのうえで寝るひとも

五月、長く雪に閉ざされていた円山公園が、茶色い大地を剥き出しにしているのには、力強い季節の移りゆきを感じる。

誰(たれ)よりも遅くて蝦夷の桜かな

日本でおそらく一番、遅い桜はエゾヤマザクラ。札幌にはソメイヨシノが少ない。

制服もスーツもありや花見客
木の下でカメラもつ子も花の宴

恒例の「花見」は、五月とともに始まり、公園も火気解禁となる。気象庁の「開花」は5月の半ばだったが、その前から、飲めや歌えの宴が開かれていた。

公園の花もけぶりなバーベキュー

じきに、楚々として奥ゆかしい山の桜が、ちらほらと花をつける。花見は、北国のひとにとっては、春を迎える行事らしい。円山公園に隣り合う北海道神宮も、参拝客で賑わう。

参道の花に埋める円い山

北ヨーロッパには、春の訪れを喜んで「五月の木」(メイ・ポール(英)、マイバウム(独))を立てる、という行事があります。春は短い夏の始まりでもあるような、季節の感覚。

実際、そこここに春の気色が。こちらのひとは、桜が咲くと「春が来た。」と言う。もう五月も後半だが、たしかに色とりどりの花が街路や花壇、家々の庭にあふれる。とりわけ、チューリップに目が行った。

小雨がち咲きたそうなるチューリップ
好きな子のほっぺに添えるチューリップ
来札のひと出迎えるチューリップ

その品種の多さと、あちこちに咲く様は、チューリップ王国のオランダを思わせた。北海道は、暦の上の夏を迎え、土地の暦では「春」を迎えているのでした。そうしたわけで、いくつか、遅れた春の句を。

母よりの手紙を開くクロッカス
遅咲きの桜のように笑むひとも
たんぽぽの乱れ咲く喜びと悲しみと
鶯の初音に白く二輪草
こでまりと握手しそうでできないな

鶯の初音を聞いたのは、二輪草の咲く山道でした。エゾエンゴサクという水色をした花も、五月の半ば頃、群生していました。こでまりは、まるで握手を求めるように風に花を揺すります。それから、夏の句を。

大木の曲がりたる根に清水寄る
新緑を編み上げている途中の木
小満や北の緑は薄緑

小満。万物がしだいに満つる時節。北国の林や山は、濃緑ではなくて、薄く白樺の肌を映したような浅い緑、黄緑に染まってゆきます。

夏の夜自転車一つ月一つ

今年の夏は、どこへゆこうか。