2014年2月20日木曜日

「雪の女王」とアンデルセンのこと

アンデルセンの童話は短いものが多いのですが、そのなかで長さでも内容のボリュームでもひときわ目立つのが「雪の女王」です。これは、「七つのお話からできている物語」と副題がつき、悪魔の話から始まります。

「ある日のこと、悪魔はたいへんな、ごきげんでした。なぜかというと、鏡を一つ、つくったからなのです。その鏡というのが、ただの鏡ではなくて、なんでもいいものや、美しいものが、この鏡にうつりますと、たちまち、ちぢこまって、ほとんどなんにも見えなくなってしまうのです。そのかわり、役に立たないものや、みにくいものなどは、よけい、はっきりとうつって、いっそうひどくなるのでした。」(『アンデルセン童話集2』大畑末吉訳 岩波文庫)

この鏡は上空で割れて、その結果、わるい鏡のかけらが地上に降り注ぎます。そして、第二のお話は幼なじみのふたりのことです。

「ちょうどそのような町に、二人の貧しい子どもがおりました。二人は植木鉢よりは、いくらか大きい庭を持っていました。この二人は、兄妹ではありませんが、まるでほんとうのきょうだいのように、仲よしでした。二人の両親は、すぐとなりあった屋根裏部屋に住んでいました。」

男の子はカイ、女の子はゲルダと言います。二人は夏も冬も仲良く隣り合わせに暮らすのですが、ある日、あの鏡のかけらがやってきます。

「ふと、カイが言いました。「あ、痛い! 胸のところがチクリとしたよ。こんどは目の中へ何かはいった。」」

ここで、カイの目と心臓に鏡のかけらが刺さります。それから、こころやさしいカイは人格が変わってしまいました。

「まもなく、カイは近所じゅうの人たちの話しぶりや、歩きぶりをまねするようになりました。その人たちの癖や、よくないところならば、なんでもまねすることができました。すると人々は「たしかに、あの子は、すばらしい頭をもっている。」と言いました。」

これは、世界がゆがんで映る鏡のせいなのですが、面白いのは、アンデルセンが、そんなカイを人気者として描いているところです。大人たちはカイの「機知」を褒めます。「あの子は頭がよい」「分別がある」といった表現は、アンデルセン作品のなかによく出てくる表現で、子供らしさの欠如と裏表である「賢さ」を示します。アンデルセンは低い学歴やスペル・文法まちがいなどに終生、コンプレックスがありましたが、こんな風に童話作品のなかで穏やかに「勉強嫌い」の風を吹かせて笑っているのです。

さて、本筋とは関係のないこんなエピソードも読んでみましょう。

「では、火のようなオニユリは、なんと言ったでしょうか。
「ドン! ドン! という、太鼓の音が聞こえるでしょう。ただ、この二つの音だけ。いつまでも、ドン! ドン! と。女たちの悲しい歌をお聞きなさい。坊さんたちの叫び声をお聞きなさい。——長いまっかな衣をまとったヒンズー人の女が火葬のたきぎの上に立っています。炎が、女と死んだ夫のまわりに、燃えあがりました。けれど、ヒンズー人の女は、ぐるりをとりまいている人々の中の一人の男のことを、心に思っているのです。」」

まだ少し続くのですが、オニユリという花がゲルダに聞かせる詩のような短いお話です。これは魔法使いのおばあさんの庭でカイのゆくえの手がかりを探すゲルダが、オニユリに尋ねたときの返答です。まったく関係のない、ヒンズーのお話がなされます。しかも、こういうシーンが「ヒルガオ」「マツユキソウ」「ヒヤシンス」などと全部で6つも続くのです! あらすじを追いたい読者からすれば、退屈で長々しい部分、と思われても仕方ありません。

けれども、それを言い出すと、副題の「七つのお話」だって、そもそもが「三つ」くらいで足りそうなものなのです——起承転結だけを考えるならば。こういった余剰あふれるエピソードの集まりに、「雪の女王」の魅力の一端が、かえって潜んでいるのだと考えられるでしょう。

その後も、王子と王女に出会い、山賊の娘に出会い、ゲルダの冒険は続きます。そして、いよいよカイのいる雪の女王の城にたどり着きます。その間、新たな人や動物に出会うたびに、ゲルダが身の上話を聞かせるのも、面白いところです。アンデルセン自身が、10代の前半で田舎から首都コペンハーゲンへやってきて、たくさんのひとに身の上話をしながら、助けを乞うたのでした。アンデルセンの境遇が反映されているのでしょう。

さて、氷の城ですが。

「そして、雪の女王はお城にいる時は、いつもこの湖のまんなかに、すわっているのでした。そして、わたしは理知の鏡にすわっているのです、この鏡こそ、この世に一つしかない、なによりもすぐれた鏡です、といっていました。」

ここでも、「理知」というみんなが褒め称えてよいようなものが、人間らしさややさしさと反対にある「雪の女王」の象徴として語られているところに読者はでくわします。それはちょうど、あの「分別のある」子供が「悪魔の鏡」に刺されていたように、アンデルセンの考え(思想)を表しているのです。「分別があること」「理知をもつこと」それはそんなにすばらしいことじゃないよ。物語をすること、喜怒哀楽のあること、そういうのが人間の大切なことじゃないか……と、そこまで直接的に語らないアンデルセンですが、ユーモアを交えて、自分の考えを、ふっと童話に織り込んでいるのです。

ついにゲルダがカイを救い出して物語は終わりますが、最後にひとつ、注目してよい点について書きましょう。それは、「広い世の中」という表現です。

(森のカラスがゲルダに)「こんな広い世の中を、たった一人ぼっちでどこへ行くの、とたずねました。」
(山賊の娘は)「そして、広い世の中へ、馬を飛ばして行ってしまいました。」

アンデルセンは、さきにも書いたようにコペンハーゲンという「広い世の中」に単身、乗り込んでゆきました。十代から二十歳すぎにかけて、たくさんの失敗と苦労を重ねて、パトロンを得て物書きになってゆきます。そんな若き日のノスタルジーに誇りを交えて、「広い世の中」へ出てゆくゲルダの後ろ姿を描き出しているのじゃないかな……とこの言葉を読む僕は思うのです。

2014年2月3日月曜日

『リルケ詩集』を読んで

リルケ(1875ー1926)の作風は、一見掴みづらいな、と思っていた。今回、ゆっくり読むことができて、少し明かりが差したと思う。(『リルケ詩集』富士川英郎訳、新潮文庫、1963年)

 私が親しくし、兄弟のようにしている
 これらすべての事物(もの)のなかに私はあなたを見出す
 種子としてあなたは小さいもののなかで日に照らされ
 大きなもののなかでは大きく身を与えていられる
 
 『時禱集』(1899ー1903)より。まだ二十代の作だが、リルケの作風が出ている。「あなた」は前後から「神」だとわかる。たいてい、彼が詩で「あなた」(ドイツ語の"Du"、親しい二人称。)と語りかけるのは「神」を指す。
 
 あなたは未来です 永遠の平野のうえの
 偉大な曙光です            (『時禱集』より)

こういう節にはニーチェの響きも聞き取れる。

 神よ あなたもまたそうなのです そしてあなたは
 日々に彼を深みへと引きずりこんでゆく石のようです (『時禱集』より)
 
ここまで来ると、もはやキリスト教の神とは思われない。リルケが自然に対して見出した、リルケにとっての神のようだ。この態度は「汎神論的」とも呼ばれている。

 <幼年時代
 待ちくたびれ 鬱陶しい物事にみちみちて
 学校でのながい不安や時が流れ去ってゆく
 おお 孤り(ひとり)ぽっち おお 重苦しく時をすごすことよ……

幼い日を懐古する姿勢は、『マルテの手記』や『若き詩人への手紙』にも見られる。それは、ロマン的な甘いノスタルジーとも、ヘッセの『車輪の下』のような苦しい自己形成の思い出ともちがうようだ。

 <アシャンティ
 私にはそれを見るのがひどく不安だった
 おお なんと動物たちがはるかに誠実なことだろう 

思い出に混じるかすかな不安、消し去りようのない臆病な気持ち。それと向き合うことが懐古であるかのように。

 <嘆き
 私は思う たぶん私は知っているのだと
 どの星が孤りで
 生きつづけてきたかを——
 どの星が白い都市(まち)のように
 大空の光のはてに立っているかを…… 

星もリルケにとっては大切な言葉だ。都市、とりわけ大都市に対してリルケはかなり懐疑的だった。嫌い、とまでは言わないが、それはやはり大きな不安と虚妄のようなのだ。

 <秋の日
 主よ 秋です 夏は偉大でした
 あなたの陰影(かげ)を日時計のうえにお置き下さい
 そして平野に風をお放ち下さい 

これは「秋の日」の冒頭だが、べつに「日時計」と題された詩もある。抽象的な表現が非常に多いリルケにとって、日時計は具象的なモチーフとして大事なもののようだ。

 <
 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
 大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

「落ちる」も何度か見かける。「星の落下よ」と呼びかける詩もある。

 <橄欖園
 のちにひとびとは語った ひとりの天使が来たと——
 
 だが なぜ天使だと言うのだろう? ああ 来たのは夜だ
 夜が冷やかに木の葉をゆすり
 使徒たちが夢のなかで体を動かしたのだ
 なぜ天使だと言うのだろう? ああ 来たのは夜だ 

  ※橄欖はオリーブ。『新詩集』(1907ー08)より。

そして、「天使」。後年、リルケの大作となる「ドゥイノの悲歌」にも天使たちが舞う。ちなみに、この本では「ドゥイノの悲歌」をまるごと省略している。併せて、どこかで読まれたい。

 <天使に寄す
 たくましい 無言の 境界に置かれた
 燭台よ 空は完全な夜となり
 私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
 むなしく力を費やしている 

「境界」は人間世界の果て、「燭台」は天使を指すとの注釈が付いている。(訳者による。)

では、最晩年の詩集「オルフォイスのソネット」(1923)へゆこう。「神」や「天使」といったキリスト教的な言葉を使っていたリルケが、「オルフォイス」=オルフェウスという古代ギリシャ神話の人物を登場させる。それは「歌」の寓意であるらしい。

 そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り超えよ
 おお オルフォイスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ
 そしてすべては黙った だがその沈黙のなかにさえ
 現れたのだ 新たな初まりと合図と変身が

同詩集の冒頭より。

リルケは旅のひとだった。ロシアにもスペインにもイタリアにも行った。本の解説には、「生の不安をその繊細な神経のふるえをもって歌っている」とある。彼の不安は、都市を旅するものの孤独、にも思える。どこにも留まらないで、飛翔しようとする、けれど人間界を超えてはいかない天使のように、リルケは地上で歌ったのだろうか。

2014年2月2日日曜日

【吟遊トーク】里人さんの読書遍歴

里人(りじん)さんは、いま博士課程の読書家です。年齢は僕より少し上。小説をメインに読まれるようです。今回は、こんなテーマでお話を伺いました。

「わたしはミステリーに対して違和感を覚えるのに、なぜミステリーに惹かれるのか。」

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

<小学生の頃>
里人さんが本をよく読むようになるきっかけは、子供向け『三銃士』(アレクサンドル・デュマ)だったという。

里人「ちょうどその前にNHKアニメ三銃士を観ていました。それと同じ話かな、と思って。『三銃士』は3巻本で、上中下とあった。だけど、僕は上下と読んで、あとから中巻を読んだんです。中巻があるのに気がつかなかったんですね。それがすごく面白かった」

ーー順番をまちがえたことが、ですか。

里人「さきに読まなければならないことを、あとから読むじゃないですか。それがはまっていく感じが面白かった。小説をまっすぐ読むほかに、後戻りしたり、知らないことを補ったりする読み方ができるんだな、と思ったことが大きかったんです」

話はミステリーに焦点を合わせて、ホームズとポアロへ。小学校中学年くらいで、これらの作品には馴染んでいたとのこと。

里人「やはりNHKのドラマで観て、小説も読んでいました。あと、江戸川乱歩も少し。探偵があざやかに謎を解いて、悪者はさばかれちゃうという全能感が好きでした」

ーーさっきの『三銃士』は冒険活劇だと思いますが、中巻を抜かしてしまったことが、ミステリーの読み方と重なるのでしょうか。『三銃士』では、あとからパズルがはまっていく読書体験をされたわけですよね。

里人「あとから意味がわかる、という点では似ていたのかもしれないですね。ただ、ミステリーの方は最後に伏線がきちんと回収されるのですが、『三銃士』では作者が仕組んでいない仕方で、逸脱したのですよね。その読み方が面白かった、という差もあります」

<中学生時代>
ーー中学生時代へ進んでもいいですか。

里人「あまり本を読みませんでしたが、高校の受験勉強をしているとき、国語の勉強で出会って、いまだに読んでいる作家がふたりいます。ひとりは福永武彦です」

『廃市』が過去の入試問題にあったのがきっかけ、という。

里人「もうひとりは吉行淳之介です。性を主題に書いているひとですね。受験勉強で出会った「食卓の光景」という短編があって、それを本屋さんで探してぜんぶ読みました」

<小説とは>
ところで、小説というものについてこんなエピソードも。

里人「塾の友達に言われたことがあって。"言いたいことがあるなら直接書けばいいのに、なんで小説を書くのか" と。論説文やエッセイで説明すればいいじゃないか、ということですね。僕はそれに答えられなかったんですよ。中学2年生のとき」

その問いに答えられたのはしばらく経ってからだ。

里人「高校3年生の頃、筒井康隆のエッセイを読んでいて、"タイトルは小説をまとめたものではない。もし、ほんとうに小説を要約しようとするならば、タイトルは小説の本文をすべて書いたものになる" という話がありました。それはユーモアなんだけど、僕は "小説は要約できない" という意味に受け取ったんです。そのときに初めて、あの問いに答えられるな、と思ったんです」

<詩>
大学に入ると、フランスの詩人ポール・エリュアールの作品を読み、それがフランス文学への入口になった。しかし、ここでも詩と小説の対立は続き、小説家であるミラン・クンデラを研究の対象として選ぶ。クンデラはこんな風に批判していた。「エリュアールのなかにある叙情的な高揚が、排他的で、もっと言えば全体主義的になりうる」と。

クンデラは里人さんの小説に対する考え方の核心に触れたようである。

<わたしはミステリーに対して違和感を覚えるのに、なぜミステリーに惹かれるのか>
ここで、里人さんはミステリーについての最初の問いに戻る。

里人「大学に入って、小説の理論を勉強した時期があるんですね。"伏線とエピソード" というテーマについて考えました。エピソードというものが、小説の網の目のなかで伏線として機能する、ということがあるじゃないですか。挿話なんだけど、結末の方で意味のある挿話になる……という」

ーーよくわからなかったエピソードが物語の筋に回収されていく、ということですね。

里人「そう。一方で、伏線にならないエピソードは、完全に挿話的なもの、最後まで回収されないわけです。『不滅』のなかでクンデラが言っているのですけれども、"アリストテレスの『詩学』のなかで、挿話は不当に低く位置づけられている。小説を読んでいて、ある場面が美しいとか、言葉が美しいとか、情景が美しいと思う。しかし、それが伏線として回収されてしまうと、その美しさが損なわれるような気がする" のです」

穏やかな調子で里人さんは続けてくれる。

里人「挿話は、独立した美しさをもつのに、それが伏線として回収されたときに、なにかを用意するものでしかなかったんだ、と思わされて残念になる。ある階段みたいなものとして作品を考えると、挿話がその一ステップにしかならない、ということへの後悔。自分としてはそこに留まっていたいのだけど、どんどん上へ行ってしまう、というような」

ーークンデラは挿話の独立性を大切にしているのですね。けれども、ミステリーに代表されるような小説のあり方だと「エピソード(挿話)」は最後には「伏線」として回収されてしまう。

里人「これが、僕のミステリーに対する曖昧な態度につながっているんですよね。僕は "ミステリー" について、ある構築されたもの、どんな細部も意味をもって、きちんとある一点へ収束していくようなものを想定しているのですけれど、それによって、場面の美しさが損なわれるように思うことがあるわけです」

ーーシャーロック・ホームズでも、ステッキでビシッと打つような魅力的な場面がありますね。

里人「そう、そう。あります。そういう楽しさが損なわれるような気がしてしまうのです。とりわけ大学院に入ってから、自分が "場面だけが突出している" のを楽しむこと、"個別のエピソードに対する偏愛" をもっていることに気づきました」

里人さんはエピソードをそのまま、それだけで愛する。だからこそ、それを伏線として一本のあらすじに回収してしまうミステリーには「違和感」を覚える。

ーーだけど、回収されるのが嫌だと言っても、独立したエピソードだけでは小説として成り立たないから……。

里人「どこかで小説が物語として読まれるものである以上、カタルシス(快感としての物語の解決)というものは必要だと思うんですよ。だけど、そのカタルシスがまったく意外な形で訪れる、構築されたものの外から訪れる、そういうことがあるとすれば、それがほんとうに面白い小説だと僕は思います」

ーー「物語の外部からカタルシスが訪れる」……ということですが、すると読者と本との出会い方やかかわり方も、小説の面白さの分岐点になるのでしょうか。『三銃士』もそうでしたよね。

里人「もしかしたら、読者にとっても予期せぬ仕方で出会うこともあるでしょうし、そういうことも含めて、書かれている現場だけではなくて、それが手に取られる、という契機を自分は重視していると思います」

里人さん、どうもありがとうございました。