2012年11月23日金曜日

【俳文】札幌便り(4)


※ 今回の投稿は、俳句結社誌「ゆく春」の一月号に掲載予定のものです。許可を得て転載しました。いまの時節に合わない挨拶もございますが、ご了承ください。

吟遊詩人の札幌便り(4)

明けましておめでとうございます。北海道から、今年初めてのお便りをお届けしたいと存じます。

のびのびと仕事始めや晩の月

さしたる趣もないようで、感慨あり。僕の思いなしだろうか。

ななかまど子供の夢をこぼれさす

街路を歩いて、北海道の木、ななかまどを見つける。三浦綾子さんは、旭川を「ななかまどの街」と呼んだっけ。驚いたことに、ななかまどは実が赤いだけでなく、葉っぱまで真っ赤に染まる。ただの紅葉と言えばそうだが……「枝の芯までくれなゐのななかまど」(大坪景章)。実景をよくよく知った人の句作だと思う。

執筆にかじかむ指も冬立てり

指を立てたら霜が降りそうな、札幌で初めての冬を迎える。山の錦も足早に、いまは白い霧に濁る。

冬の霧まろやかなりしカプチーノ

エスプレッソに注いでみたい。

寒空や哲学書にも黒い文字

墨を流したような夕べには、文庫の文字もひときわ白地に黒、と意識する。

小春日や珈琲あれば時計なし

たまの晴れた日に公園へ出ると、落ち葉が搔かれて、茶色い蕊のようなものがいっぱいに敷き詰められていた。

白樺もつるぎになって冬の朝
長靴で落ち葉の湖(うみ)を渡りけり
木枯らしや篠懸の葉の大移動

篠懸(すずかけ)の木は、プラタナス。てのひらより大きな楓に似る葉、と言えばイメージが湧くだろうか。遅く落葉する。

小雪のシロフォン鳴らす林かな

小雪(しょうせつ)は、二十四節気の一。水気を含み、じめっとした雪が降り始める頃。ちょうど、朝の光にとけて、雑木林の常緑樹から、ぽたりぽたりと落ち来る音は木琴のよう。

独り居を十一月の蕎麦湯かな

蕎麦は季節を問わないが、「十一月」に響き合う心地がする。こちらはすでに初雪も近い。

初冬やいろはを踏める石の上
冬の蛾や地に羽ばたいて力尽く

円山を登った時の句。十二月に向けて、大通公園はイルミネーションに彩られる。

Decemberや恋人連れる大通
短日やむらさき色のほの明かり

英語部、「ディセンバ」と発音されたし。札幌の風情。夕暮れも美しい。以下、旭川へ旅をしたときの句。

ストーブのひっそりと煮る小豆かな
夜咄やサルミアッキの妙な味

サルミアッキは、フィンランド人が宿へ持ってきた北欧の飴。世界一まずい飴と言われる。

今回は、新年への投稿ということだから、少し早いが年の瀬の句と、新年の句を。

門もなき我が住まいとて年木樵
かまくらに硯持たせん初句会

かまくらは、もちろん「鎌倉」ではなくて、雪のかまくら。句友を思うことしきり。今年もよろしくお願い申し上げます。

2012年11月20日火曜日

【童話】ポトフの冒険

ポトーフ博士は、船で、イギリスからやって来ました。博士は、ふつうのPh(ピー・エイチ)ドクターではなしに、特別なPth(ポートーフー)ドクターの資格を、世界で初めて取った人でした。

ところが、博士と弟子たちを乗せた船は、大皿のなかで大きな薄緑色の山に乗り上げてしまいました。

「むむ、座礁したぞ。」博士はブイヨンスープの波をかぶりながら、弟子たちに言いました。「さあ、これから尋常でないポトフの冒険が始まるぞ。」

ポトーフ博士は、丸のキャベツを半分に切った山を見上げて言いました。「諸君、君たちはこのキャベツの山に登頂できると言うのかね?」弟子たちはぶるぶると首を振りました。

それからも、いろいろな素材にでくわしました。

「ああ!わたしとしたことが玉ねぎの皮ですべるなんて。」
透き通った玉ねぎの表面は、なめらかでした。

「わが愛しのマスタード、君だけが頼りだ!」
黄色いマスタードが、ちょびっと皿の縁に乗っていたのです。

「ふきが入っておる!」と、博士は驚きました。ルーペで拡大して、ぱくりとかじりつきました。「初夏の味じゃ。五月の風が薫らないだろうか?」

「とんでもないソーセージじゃ。ぷりぷりしておる。」
それは、ほとばしる肉汁とぱちんとはじけそうな皮のソーセージでした。

「だめだ、どれだけ掘ってもほくほくのじゃがいもよ。」
色の良いじゃがいもは、やわらかいのに煮崩れた様子もないのです。

そんなこんなで、ポトーフ博士とその一行は、大皿の半分も食べ切ることができませんでした。

【童話】居眠り加湿器


ぼくは加湿器。北国のマンションに住んでいるんだ。シュッシュッと白い息を吐き出すのが仕事さ。それで、部屋の湿度が高くなると、いっしょに住んでいる青年が喜ぶんだね。

だけど、どうやらぼくはなまけものだと思われている。それどころか、こわれているとか、ぬかすんだよ。こわれてなんかいないさ、ただ、ちょっとぼくは居眠りが得意なんだ。こう、電源が入ってフウフウやり始めるだろ、しばらくすると眠くなってきちゃう。ときには、シュワッとやると、もう居眠りさ。こっくりこっくり始めちゃって。

そういうときはね、赤いランプを灯しておくんだ。すると、あいつは「もう給水か?さっき飲ませたばかりじゃないか」なんて、言うようだけど、ぼくも眠いからよく聞こえない。水はたっぷりくれるんだ、いいやつなんだよ。ぼくもごくりごくり飲むさ。

おっと、揺らすなよ!目が覚めちまう。

ところで、ぼくは超音波式らしい。そういうのが、おなかのとこについている。それはね、ヒーター式みたいに電気を食わないんだ。ぼくは節約家なんだよ。たいして電気おじさんのお世話になろうとは、思っちゃいない。ヒーター式の友達は、ばいきんがつきにくいし、部屋の空気も温まるんだから、と息巻くけれど、ぼくはああいう湿っぽいのは好かないね。

ふああ、こう、一生懸命おしゃべりしていると、ねむたくなってこないかい?あくびが出るんだが、これは加湿器の本来の機能じゃないんだ。白い霧も出ない。もうちょっと洗濯物でも干せばいいと思うよ。ほら、ぼくが汽車ぽっぽみたいにがんばらなくても済むだろう。ああ、もう夜んなっちゃった。そろそろ、彼も寝るんじゃないかな。一足先に、休むとしようか。おやすみ。

2012年11月18日日曜日

【エッセイ】旭川紀行ーー旭川奇考


訪れた友達が言っていた、「なんにもない街ですね」。「商店街を奧へ行くと、ちょっとおしゃれな喫茶店が地下にあって、珈琲を飲みましたよ。」「地元のおばちゃんたちが、カウンターの店主に話しかけていましたね。」彼の旭川の印象は、そんなところだった。

旭川を愛すること。さびしさの中の賑わい。または、賑わいの中のさびしさ。それは、ちょうどクリスマス・イルミネーションの表通りを歩くときに吹きつける粉雪。高い建物に灯る明かり。けれども、人通りの少ない道。歴史ある落ち着いた喫茶店。だが、人影はまばら。たくさんの雪が降りつのる。

旭川はさびしい。あちらこちらに小綺麗なお店が、こだわりの雑貨屋さんが、カフェがある。散在する。......その真ん中を、茫漠としたどこか空虚な大通りが貫いて、だけれど、歩けば、なにかが見つかるだろう。たしかに人は少ないかもしれない。けれど、みな、雪を踏み越えて歩いている。

僕は、旭川が住みよいとは思わない。なにも知らないけれども。あるいは、旅先として、夜景がどうとか、素敵な宿がいくつかとか、そういうこともないのを知っている。無機質にも見えるホテルが林立している。だが、なにか、あの風景のなにかが、惹きつけて止まない。完成した駅舎も、百年の懐かしさを背負って見える。

新しい駅舎は居心地がよく、広々として天井が高く、ぐずぐずと長居もしたくなるが、いざ出て、街へ。友達が「なにもない」と言った商店街へ繰り出す。僕もまた、「わずかなものしかない」とか「かすかになにかがある」とか、形容したくなるけれど、温かい人たちがお店をやっているのを知っている街へ出かける。

冬になると、旭川へ旅をしたくなる。

2012年11月7日水曜日

【哲学】"なぜ空は青いのか" そして…。

ちょっと科学と哲学の話をしよう。それは、科学を含む哲学の話だ。

なぜ空は青いのか。素朴な疑問に対して、色の波長の論理で答えられる。青は、短い波長の色であり、太陽光線のうちで、もっともたくさん大気中で反射してから、地上へ届くから。

2012年10月31日水曜日

【ハロウィンの童話】パンプキン・バー


 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

10月31日は、子供たちの喜ぶハロウィンの夜。もとはケルトのお祭りですが、いまはキリスト教徒もお祝いします。

カナダの冷たい夜でした。たくさんのともしびが、ジャック・オ・ランタンというカボチャのお化けの口でチラチラ光っていました。街中が騒がしく、子供たちは、”Trick or Treat !”(トリック・オア・トリート!)と叫びます。ーーこれは、「おかしといたずら、どっちがいーい?」という意味でした。大人たちは、いたずらされるよりはおかしをあげたがるでしょう!

エナはあめ玉に仮装しようと決めていました。みんな、なにかに仮装するのです。エナちゃんのあたまはおっきなキャンディーになりました。「ママ、早くして!」「だけど、どうしてあめ玉なの?」「甘くて丸いから!」

コロコロと、エナは外へ飛び出しました。−5℃のストリートです。ママも急いでコートを羽織って、追いかけました。「わたしは寒くって。あなたは、すばらしい帽子を、かぶっているからいいけれど」。たしかに、エナの頭はすっぽりとおおわれていました——キャンディーの包み紙に。

家々のかぼちゃの灯がぼうと光る中を、二つの黒い影が走ります。たったった、たったった。あちこちの庭で、チョロチョロ動く気配があり、小さなお化けたちのクスクス声が聞こえます。やがて、ふたりはお化けの集まる広場へたどり着きました。

 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

エナちゃんは耳をそばだてて、その歌声を聞きました。「あっちだ。」向こうに、黄色く塗りたくられたキャンピング・カーが止まっています。なにか、おかしを配っていますよ。
「それなぁに?」
「こりゃ、パンプキン・バーさ。」
コウモリのお化けが答えます。ぱたぱた、と羽が動きます。となりのドラキュラみたいな侯爵がにやりと笑いました。
「かぼちゃをとろとろに溶かしてね、われわれ特製のクリームチーズといっしょに、ココアクッキーのうえで焼き上げた、上等なおかしなのさ。」なんておいしそうなのでしょう!コウモリは、あたりを見回して言いました。
「だけど、お嬢ちゃん、ママはどこ行った?こいつは一本1ドルするんだよ。」
そういえば、見当たりません。
「ママ?」
はぐれてしまったようです。これでは、パンプキン・バーが買えません!
「このおかしはね、売り切れちまうのが早いんだ。」
コウモリがちょっと困ったな、という風に首をかしげました。——たいへんだ。エナちゃんは、広場の人混みの中へ分け入っていきました。

ごったがえす広場をかきわけかきわけ、押し進んでゆくと、「エナ、エナ!」と呼ぶ声が聞こえました。——ママ! エナは魔女の格好をしたママに抱きつくと、さっそくその手をとりました。
「ママ、たいへん。パンプキン・バーが売り切れちゃう。こっち、こっち。」
手を引くものの、エナはどこだかわからなくなって眉をしかめました。
「エナ、どっちなの。誰かひとに聞いてみましょう。」
「ああ、わからない。」
ふたりは、せっかくお互いを見つけたのに、今度はパンプキン・バーからはぐれてしまったのです。

ずいぶん、長いこと探し回りました。こころなしか人出が少なくなりました。あれ?あそこに見えるのは、あのキャンピング・カーです。まちがいありません。けれども、歌声が聞こえて来ないようです。コウモリとドラキュラは、真っ赤なドレスの魔女といっしょに、出店を片付けているところでした。

「ああ」とエナは悲しげな声をあげました。「もう店じまいなのですか?」と、ママが真っ赤な魔女に尋ねます。「そうよ。」コウモリが、羽を揺らしてこちらへ来ました。「お嬢ちゃん、やっと見つかった。」「パンプキン・バーは?」「待っていたんだぜ。かならず来ると思ったからね。ほら、ここに一本とってある。」そこには、オレンジと紫で包まれた細長いおかしがありました。

「ありがとう!」エナちゃんは顔を輝かせました。包みを開けると、黄色と黒のパンプキン・バーが姿を現しました。カボチャとクリームチーズの黄色は、なんとも甘く、幸せな噛みごたえがあります。それが、ココアクッキーを砕いた板のうえに乗っかっているので、ばりばりほうばると、黒い粉がエナの口元からこぼれ落ちました。ママはエナと顔を見合わせて、「やったね。」とにっこり笑いました。

 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

こうして、カナダのハロウィンは、ママとエナにもおかしな幸せを配ってくれたのです。

2012年10月29日月曜日

俳文——札幌便り(3)


ふと、一昨年の句を見つけた。

栗一つ落ちて間もなき山路かな

奈良の大和路を歩いていた時のものだ。栗と言えば、戯れの句も詠んだ。

めずらしや栗の入った栗ご飯

家で炊いた栗ご飯の黄色いのに、なんとも言えずいい心地を覚えて。もちろん、栗ご飯に栗の入っていることは「めずらし」くない。

めずらしやかたわれまわる秋の蝶

今年の秋に詠んだものでは、この句が本当にめずらしい。つがいなのだろう、片方の蝶の回りを、もう一方がくるくると回りながら、二匹で草むらへと飛んでいた。はっとしたものの、ちょうど体調も悪しく、道を急いだ。

毎日が病み上がりとや秋の風

異郷に越して、少しリズムを損なったろうか。からだはもともと強くない。そこで、山に登ってみよう、と思った。札幌には円山という小さな山がある(標高225m)。

セキレイの場所を取り合う朽ち木かな

山に入ると、小鳥が飛び交い、空気もしんと清められる。頂上までは、ものの30分。

頂の空に飛び込む赤とんぼ
みのむしの風来坊に似たるかな
昨秋を見下ろす山のもみじかな

去年も、同じような時期にこの山を登ったので、一年前を顧みる心地がした、下山の道。

ひそやかに水も色づく竜田姫

黄色や赤が水底に光る。北海道神宮の敷地へ入る。ちらりと視界を横切るのは、エゾリスだ。いまのうちに脂肪を蓄えているのか。

秋麗(あきうらら)檜を降る(くだる)リス太し

風が渡ると、ナラを揺さぶってぽろぽろとどんぐりがこぼれる。一つ拾えば、

どんぐりにまだらもようの若さかな

ぽいと天高くほうり投げてみた。先頃、ご無沙汰をしていた美瑛への小旅行も果たした。ここが僕の故郷、と思わせる不思議な佇まいの美瑛町。

遠雲の低くたなびき空高し
この町や僕は美瑛のななかまど
夜の闇と鉄の格子や秋涼し
秋思して夜の列車の早きこと

二句目、「僕は」と詠み込んだのは、冒険。「鉄の格子」は、改築されてずいぶん立派になった旭川の駅舎にて。

珈琲の浅き夢見し夜長かな

夜にふと珈琲を飲みたくなる気分があるが、眠りは浅くなる。珈琲の浅煎りと掛けた。中秋の名月も近い。

ふっくらと月は旅路の銘菓かな

空想に遊ぶ。子規が好きだった柿など食べながら。

もぎたてで奈良を出でけむこの柿も

本歌は、鎌倉を生きて出でけん初鰹(芭蕉)。そろそろ、帰省しようと思う頃。トーベ・ヤンソンさんのムーミン・シリーズでは、「スナフキン」という放浪者が、冬になると旅に出る。僕はよく「スナフキンみたい」とあだ名された。

晩秋や南の国へスナフキン

2012年10月25日木曜日

福永武彦『草の花』を読んで

『草の花』は、福永武彦の主要な小説である。

◆ 表題『草の花』について
可憐なタイトルだ。小説全文のうちで、「草の花」という単語は、2箇所に出てきたと思うが、印象的なのは、次の箇所である。

「そして、時間は絶えず流れ、浅間の煙は何ごともなく麓の村に灰を降らしていたのだ、草の花は咲き草の実はこぼれ、そして旅人は、煙のような感傷を心に感じていたでもあろう。」

ここは、物語の後半にあたり、主人公は、一人、信州で夏の休暇を取る。その冒頭の描写。

タイトルの由来は、直接的には、エピグラフ(巻頭の引用)に掲げられた聖書の句「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。」(ペテロ前書、第一章、二四)に求められるようだが、この聖句をどう作品とからめて解釈するかは難しい。というのも、小説のテーマは、汐見という無神論者の「孤独」と「愛」であり、きわめて個人的な信条と心情へ踏み込むものだから。作品の中では、「人はみな……」という語り口は採られていない。また、ヒロインの千枝子がキリスト者であるが、汐見は彼女の宗教を自分は拒絶して、自分の孤独を貫くのであるから。それでいて、なぜ、聖書からエピグラフをとったのか、僕にはよくわからない。

ともあれ、その前に引用した信州の描写は、印象的で文学的な色合いも強い。『草の花』というタイトルは、むしろ、著者にとっての信州の風景を凝縮した言葉であったのかもしれない。

◆ 友人、藤木との精神的な愛
小説の全体の見取り図を描けば、以下のようになる。まずは、枠構造があり、語り手の「私」が、サナトリウムで汐見(しおみ)という男を知る。汐見は、無謀な手術に挑み、死んでしまうが、その前に、「私」にノートを託す。それが、汐見の人生を振り返ったものである。「孤独」と「愛」が二重螺旋を描いたような人生を。物語は、ノートの中へ。

そうして、第一部では、汐見が十八歳のとき、友人の藤木と交わした愛について語られる。第二部では、二十四歳のとき、その藤木の妹である千枝子と交わした恋愛が語られる。いずれも、汐見の愛の情熱が、孤独のもたらす葛藤によって、奇妙にねじ曲げられ、相手と通じ合わないまま、終わる。

第一部は、藤木との友情を描くが、汐見はプラトーンのイデアなどを持ち出し、自分の愛情がすぐれて精神的であることを告げ、藤木にも同じ「愛し返し」を求める。汐見の愛は、少なくとも肉欲には基づいていないようで、藤木の魂の純粋さを愛している。ところが、汐見の思想が深まれば深まるほど、理屈っぽくなればなるほど、藤木は「そっとしておいてください。」とくり返し、汐見から遠ざかる。ほどなく、藤木は十九歳で病死する。かくして、汐見の思想的な愛は、彼のもつ思想によってかえって妨げられもする。それゆえ、汐見の思想上、避けることができない「孤独」の前に破れた、とも言える。

この第一部は、作者が作品構成のために、ひねり出した感を覚えた。おそらく、第二部の(よくある男女の)恋愛だけでは、構成上もの足りなくて、思想を十全に打ち出せない、などと考えて、第一部を設けたと思われる。というのも、藤木との友情だか恋愛だか、はっきりしない男同士の関係は、その心理描写やシチュエーションの作り方を見ても、作者の実体験や実感に基づいているとは思えず、とても観念的だからである。とにかく、二人きりになっては、汐見が藤木に愛を説いて(自説をぶつ)は拒絶されるばかりで、書き割りの前でお芝居をしているようだ。また、二人で水の上のボートに取り残されるシーンなどは、いかにも作りものの感が強い。この第一部を設けた目的としては、たぶん、汐見の「孤独」や「愛」が、性愛にかぎられない、普遍的な人間関係のもとで起こる、と作者は説きたかったためだろうが、どうにも小説としては弱いと思えた。

◆ 人間の愛と孤独
第二部は、千枝子との恋愛で、ここは景の描写も、男女の会話も、心理の変化も、小説家の腕が生きている。相変わらず、シーンの設け方は、「うまくできすぎている」感が強いものの、それは、この作品が思想的な小説であるということだろう。

汐見はここでは、思想上の(プラトンがどうのという)愛ばかりでなく、明確に、男女間の現実的な恋愛をも、生きている。千枝子に恋をして、キスを求め、身体に触れようとしている。その点、第一部よりも「孤独」の葛藤は、だいぶ現実味を帯びる。作品の終結に近い部分で、ふたりはこんな風に会話する。

ーーあたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でも、あたしにしてあげられることは何にもないんじゃないの。
ーー君が愛してさえくれればいいんだ。

ここでは、汐見は真摯に愛を伝えており、愛が孤独を癒す(治す)とさえ、「楽観的に」考えているように見える。ところが、この後、千枝子のキリスト教信仰が問題になる。

ーーでも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ。
ーーじゃ君は、誰か信仰のある人と愛し合えばいいさ。僕のような惨めな人間を愛することなんかないさ。

こう、皮肉を言ってしまう。けれども、その直後にはきちんと付け加える。

ーーしかし、誓って、僕ほど君を愛している人間は他にいないよ。

これは、汐見の率直な気持ちであろう。そして、この愛は、神の愛に対比して、まさしく人間的な愛、だろう。それは、藤木のときにそうだったような、精神的な純愛、ともちがう。それを含むとしても。

ところで、神については、汐見はこんな風に語っている。

——僕は神を殺すことによって孤独を靭[つよ]くしたと思うよ。勿論、今でも、僕はイエスの倫理を信じている。[中略]……わが心いたく憂いて死ぬばかりなり、と言ったゲッセマネのイエスの悲しみなんぞは、痛いほど感じている。しかしそんなものは、僕の文学的な感傷にすぎないだろうよ。君たち[千枝子たち]の信仰とはまるで別ものだろうよ。

すなわち、この小説では、(キリスト教の)「神」のテーマは副次的な題材であり、主題である「孤独」をよりいっそう強める、宗教の側から、宗教による救いを断ち切る形で「孤独」を強める、一つの手段となっている。そんな風に解釈できるだろう。実際、クリスチャンが書いた近代日本小説に比べれば、宗教的な話題や、その思想的闘いは、この小説であまり力強く描かれてはいない。

こうして、プラトニックな愛(精神化された愛)に依拠しつつも、もっと肉体や生活のつながりを採り入れた、人間的な愛を、汐見は求める。そして、いま見たように、そこには、神や宗教の入る余地はない。ところが、そういう「愛」をもつ一方で、汐見は「孤独」をもち、自分が徹頭徹尾、孤独を捨てない(たとえば、愛情に溺れることで捨ててしまったりしない。)ことによって、自分の精神を保っている。孤独というものを、ほとんど信仰するかのように、保つことで、汐見の存在が保たれている。すなわち、自身の精神的なバランスを保ち、また、汐見が生きていくための支えのようなもの(アイデンティティ、自分が何者であるか)を保っている。物語の終わり近く、ふたりは人目につかない高原の一隅で、身体を重ねそうになるが、汐見は、土壇場でそれを止めてしまう。こうして、汐見は自分の孤独を貫いて、恋を終える。千枝子はべつの相手と結婚し、汐見は兵隊として召集される。

◆ 『愛の試み』とともに
汐見は「孤独」を貫くことで、「愛」をも貫いたのだろうか。——それは、この小説の問いかけ、と呼べるかもしれない。つまり、汐見の「愛」は成就したのか、しないのか。作者は、あまり明確な回答を避けるとともに、この問いそのものをも、強く打ち出そうとはしていないように見える。「愛」の成功・失敗という結末の解釈よりも、「愛の難しさ」を、そもそも「愛とはなんなのだろうか」というところから、作者は刻印して、物語を記したように思える。そして、「愛とはなにか」の答えには、必ず、「孤独」という主題がつきまとう。己の、そして相手の「孤独」にどう処するか、ということと、「愛すること」は不可分なのだと、半ば前提のようにして、福永武彦は主張している、と言える。それが、小説という形ではなく、思想的な文章にされるのは、別著『愛の試み』においてだ。逆に言えば、『愛の試み』において、観念的で、敷衍されない「孤独」の概念を、こちらの小説を題材にして、探ることもできると思う。その意味では、『愛の試み』を読み解くヒントを散りばめたような、本でもある。

2012年9月9日日曜日

【俳文】札幌便り(2)ーー公園の街 美瑛への汽車


札幌へ来てふた月。ここは、公園の街でもある。札幌駅の方から、繁華街のすすきのをくぐり抜けると、中島公園に行き当たる。緑にあふれて、芸術にも触れられる。隣接する渡辺淳一文学館は、安藤忠雄の事務所が設計。園内のコンサート・ホール「キタラ」は、白い彫刻に囲まれている。キタラにまつわるエピソードは、面白いのでいつかご紹介したい……。

円山公園は、市街地の西の端。小さな山(円山)のふもと、原生林とともに広がる。開拓前の自然を色濃く残している稀有な場所ではないだろうか。敷地は北海道神宮と隣り合い、僕はいまだに、どこからが神宮なのか、わからない。お社は円山の加護を得て、背の高い樹々に守られているようだ。

なにやら人だかりができている、と思うと、今日は送り盆。向こうで、太鼓を叩いている。円山公園で水の音を聞いていたが、そのまま参拝に行った。

砂掃いて神前の松さやかなる

いつも掃き清められた境内が、いっそう北海道らしく広々として見える。

手を合わせ立ち去らんとす秋の空

西洋では、死者を悼んで鎮魂歌を歌う。「レクイエム、エテルナム(永遠の安息を)」というのが、ラテン語の決まり文句だ。

盂蘭盆会(うらぼんえ)みなレクイエムエテルナム

歳時記を繰っていると、「蓮飯」に行き当たった。お盆には目上の人に敬意を払い、蓮の葉で蒸したご飯を贈るという。祖母の顔が浮かぶ。

おばあちゃん元気でいてね蓮ご飯

円山公園をそぞろ歩いて帰る。北海道は蚊が少ない、と聞いていたけれど、夏の間、本当に刺されなかった。今日、初めて小さく、赤く腫れている。

秋の蚊に刺されてゆかし原生林

今月は、旭川から、美瑛まで足を伸ばした。上川盆地、カムイミンタラ(アイヌ語で「神々の庭」)の中。単線の汽車に揺られる。北海道の方言では、電車を「汽車」と言う。土地に起伏が出てくると、そこは北美瑛。もう一つで、美瑛駅に着く。

旅先はカムイミンタラ馬肥ゆる
千代ヶ丘と音声の言う蕎麦の花
きりぎりすお迎えに出る北美瑛

帰りは、夏の間だけ走る「機関車」(を模した)ノロッコ号に乗る。のろのろと走って、旭川〜富良野の景色を満喫できる特別列車だ。子供が喜ぶ仕掛けも随所にある。

こんにちは野に遊ぼうと花芒
ノロッコ号ゆくゆく次は稲田駅

「稲田」は季語を入れたので、この駅名は富良野線にはないもの。架空の駅名です。すでに入道雲ではないけれど、大きな雲の塊を望みゆく。

初秋やカムイの雲を越える汽車

2012年9月8日土曜日

【童話】ロマンス語の帽子


こんにちは。今日はなんのお話をしようか。そうだ、きみたちは、ロマンス語ということばを、しっていますか。ロマンス語です。なんだろう、それは。

ロマンス、は知っているね。そう、ロマンティックなことだ。おとこのひとが、おんなのひとに、やさしく話しかけたり。うん、ちょっとはずかしいね。ふだんは、みんな、ロマンス語なんて、しゃべらなくていいんだ。

だけど、今日は、そのぼうしをかぶると、ロマンス語を話してしまう、そういう不思議な帽子の話です。ある日、空から降ってくるんだね、どこからやって来たんだろう。

ロマンス語の帽子は、春の疾風に、はやい風に乗って、空を吹かれていました。ふぅー、ふぅー。

そして、小さな町のうえまで来ました。ちょうど、市場がひらかれていて、ひとだかりができていた。八百屋は野菜を、魚屋はぴちぴちのお魚を売っていたんだけど、ひとり肉屋の息子だけは、やせっぽちで、うつむいて、びくびくしていたんだ。

おやじさんが、ばんと背中を叩いて言った。
「ほら、もっと大きな声をださんか!」
「お、おにくいりませんか……」
それは、とってもちいさな声だったから、誰もふり向かなかったよ。

その肉屋の息子のところへ、ふわりと、空からなにかが舞い降りた。あのロマンス語の帽子だ。そして、スポッとあたまにかぶさった!

すると……

「そこをゆく奥さま!真っ赤なスカートがよくお似合いですね。なんてお美しいのでしょう!」
奥さんは、振り向いて肉屋の息子の顔をみたよ。その目は、きらきらと輝いていたから、ちょっと惹きつけられてしまったね。

「あなたのために、ひときれおまけしておきますよ。」

奥さんはいい気分になって、明日の分までまとめて買っていった。肉屋のおやじさんもにんまり、だね。

また、春の疾風が吹いて、ロマンス語の帽子は、町はずれの方へ飛ばされていった。

床屋のおじさんは、陽気なひとで、いっつもよくおしゃべりをしながら、髪を切ったね。今日も、若いおんなのひとを席につかせて、世間話を聞かせていたのさ。

「それで、わたしは言ってやったよ、それは、あんたのおかみさんの兄さんの隣に住んでるいとこのせいじゃないのか、とね。。。」

だけど、このひとの話は少しややこしいから、若いおんなのひとも、ちょっとあくびをしていた。そんな床屋のおじさんのところへ、ふわりと、空からなにかが舞い降りた。あのロマンス語の帽子だ。そして、スポッとあたまにかぶさった!

すると……

「今日は、よく晴れたいい日だね。こんな日は、きみを海へドライブに連れてゆけたらいいんだがな。」

若いおんなのひとは、びっくりした。だけど、おじさんは、なにごともなかったかのように、はさみをもったまま言うんだ。

「きみの栗色の髪が、海風になびくだろう。おや、なんてきれいなんだろう、つやつやとして。これは、神様からの授かり物だね。この髪に、はさみを入れてしまうなんて、ぼくは罪な床屋だ。」

若いおんなのひとは、なにがなにやら、とにかく真っ赤になってしまった。「わたし、もう帰ります!」と言って、席を立って帰ってしまった。そういうわけで、この床屋は、一人、客を逃してしまった、帽子のおかげでね。

また、春の疾風が吹いて、ロマンス語の帽子は風に揺られ、どこかへ飛び去った。

公園でちいちゃなおとこのこが、遊んでいた。お砂場で、おないどしくらいのおんなのこと、遊んでいたんだけど、おんなのこが、かれのシャベルをぐいぐい引っ張るんで、とられてしまった。そして、ちょっとべそをかいていたところ。

そこへ、ふわりと、空からなにかが舞い降りた。あのロマンス語の帽子だ。そして、スポッとあたまにかぶさった!

すると……

「ねえ、ぼくのシャベルをもっていったおんなのこ」

と、かれは言ったよ。

「あなたは、まんまるい目をしているの。ぷっくりしたほっぺは、りんごみたい。なんて、かわいいんだろ!」

おんなのこは、こっちを向いて、くびをかしげたよ。おとこのこは言いました。

「ねえ、ぼくといっしょにお砂遊びをしよう。ぼくは、きみと仲良くしたいから。シャベルは、とくべつ、きみに貸してあげてもいいよ。ぼくには、バケツがあるからね。」

こうして、ふたりは仲直りして、おやつの時間まで、いっしょに遊んだのさ。あのロマンス語の帽子のおかげで、ね。

太陽が傾く頃、また、春の疾風が吹いて、帽子はふわりと宙に舞った。そして、どこかへ飛んで行った。

ここで、ちょっと困ったことが起こった。

街角で、若い男のひとが、ベンチに座って、もじもじしていた。隣には、ワンピース姿のおんなのひとがいて、自分のサンダルの先を見つめていた。

この男のひとは困っていたんだ。

かれは、となりのおんなのひとに、言いたいことがあった。そして、「あ、あ、」と声を出しては、目をぱちくりして、黙ってしまうんだ。ほんとうは、「あなたのことが……」と、言い出したかったんだけれど。すごくどきどきして、ことばがつっかえてしまったんだね。みんな、いちどはこういう場面に出くわすことがあるよ。

もう、日も暮れかけていたから、おんなのひとは、いまにも「あたし、もう帰るわ。」と言い出しそうだったよ。せっかく、今日一日、楽しく過ごせたんだから、かれも伝えたいことを伝えられれば、よかったんだけど……。

おとこのひとが、また「あ、」と言いかけたところで、ふわりと、空からなにかが舞い降りた。あのロマンス語の帽子だ。そして、スポッとあたまにかぶさった!

すると……

「ああ、どきどきしてしまっていけないな。ぼくはどうしてしまったんだろう? きみのとなりで、春風に吹かれているだけなのに。」

おんなのひとは、自分のサンダルから目を上げて、かれの顔をみた。かれの顔は、すこし赤くなっていたけれど、目はぱっちりと開いて、夕焼けを映しながら、かのじょをみつめていた。

「はじめて、あなたに声をかけたときから、ずっと胸が高鳴っているんだ。朝早くフランスパンを買いに出掛けるときも、昼下がりに、すみれの咲く小径を歩いているときも、夕暮れどきに、家でスープを煮込んでいても、ぼくのこころは、」

かれは、じっとかのじょを見つめて、つづけた。

「あなたのことでいっぱいなんだ。どうしたのかな、今日もあなたの横顔をみるだけで、ぼうっとしてしまって、とても真正面から、目をみられなかったよ。でも、こうして見つめ合っていると、なんて不思議な心地がするんだろう。ぼくは、あなたのことが、」

かれは、ずばりと言ったよ。

「好きなんだ。」

隣のおんなのひとは、すこしのあいだ、なにも言わなかったけれど、「ふふっ」と笑うと、両手を伸ばして、彼の手をとった。そして、言ったんだ。

「ありがとう。うれしいわ。わたしもあなたが好き。どうしたのかしら、春の疾風が、わたしのこころを運んでいってしまったみたい。」

こうして、ふたりは恋人同士になったよ。驚いたことに、おんなのひとは、帽子をかぶらなくても、ロマンス語が話せたんだね。これは、恋の魔法かもしれません。

ロマンス語の帽子は、いつのまにか、どこかへ飛んで行ってしまったみたいです。さて、次はどの町へ、春を運んでゆくのかな?

2012年8月17日金曜日

追記:ジブリの考察に寄せて。


いまの時代の空気というのは、自分たちが、それを呼吸しているものだから、当たり前になりすぎて見えなくなってしまいがちだ。ジブリの作品にしても、いろいろと、目につきやすい魅力的な点ばかりが、理解されるかもしれない。けれども、ふだん盲点になっている箇所、時代がそこを回避し、迂回している点に、あえて目を向けようと試みることも、大切なことだ。時代に寄り添いながらも、いつも、時代の流れに対して、距離を置くことのできる姿勢を忘れたくないと思う。

ジブリの魅力の源泉は?ーー幼さの残る若い女の子の世界。


1. アメリカのお父さんは、ジブリに惹かれている。

ディズニーとジブリについて、こんな記事を読んだ。



小さな娘をもつお父さんが、子供には、ディズニー映画よりは、宮崎アニメを観てほしい!と言う記事だ。

その理由は、だいたいこんなことらしい。

「プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。」

ここが、お父さんの気に入らない。ディズニーのヒロインは、性的な魅力を前面に押し出している。それに対して、宮崎アニメでは、性的な要素は少ないか、副次的である。そこで、お父さんは、ディズニー対ジブリを、

「性的な魅力」対「関係性」

という副題でくくって話をする。

「これに対して宮崎アニメでは、性的魅力が一役買うのは確かだが、そうした魅力は男女関係の一要素に過ぎない。」

とのこと。宮崎アニメでは、ヒロインと男の子の「関係性(relationships)」は、性的な魅力のほかにも、多くの複雑な要素で築かれる。これがよいのだ、とお父さんは言う。ほかにも、ポイントはあるのだけれど、そこは省略して結論にゆくと、

「ディズニーのビジネス複合体が、宮崎監督というすぐれたストーリーテラーによって置き換えられ、米国の子どもたちに、よりすぐれた物語とロールモデルが提供されるとしたら、素晴らしいことだ。」

と結ばれている。

どうだろうか?

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2. ジブリでは、うら若い女の子が主役になる。

ディズニーについての分析は、ここでは差し控えて、宮崎アニメ(日本の慣習にしたがって、以下、「ジブリ」とも呼ぶ。)について、もう少しよく見てみよう。

まず、ジブリのヒロインないし主人公が、みな、うら若い女の子である点に注目したいと思う。

最初の作品、ナウシカに始まり、「ラピュタ」のシータ、もののけ姫もそう。さきのアメリカのお父さんが好きだと言う、千と千尋はもちろん、「耳を澄ませば」の雫は、中学一年生。お父さん、自分の娘には、「魔女の宅急便」を見てほしいそうだけれど、魔女見習いのキキは13歳。

不思議に思われたことのない方もいるだろうけれど、ジブリでは、ディズニー映画に出てくるような、「(成熟した)大人の女性」が主役として登場しない。代わりに、幼さの残る、若い女の子がヒロインになる。ほぼ例外はない。これは、驚いてもよいところだ。

ついでに、ジブリにおいては、男の子よりも女の子が、物語で主要な役割を果たす点にも注目したい。ナウシカでは、アスベルという男の子がサポート役に回るけれど、あまり個性的には描かれていない。ラピュタでは、パズーは勇敢な少年で、大活躍するが、あくまで物語の中心は、飛行石をもつシータ。「耳を澄ませば」では、雫の心理は揺れて、詳細に描かれるけれど、「聖司くん」は、揺らぎのない理想的な青年として、ある意味、単純に描かれている。

作品は沢山あるので、一つ一つみてゆけないけれど、大方の印象としても、ジブリ映画(宮崎駿作品)は、「うら若い女の子が主役になってきらりと光る」とまとめても、あながち的を外さないと思う。

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3. ジブリ映画の魅力の源泉とは?

では、なぜ、ジブリには、うら若い女の子がよく出てくるのだろう?

POPシンガー、ブリトニー・スピアーズの歌に、こんなタイトルの曲がある。

"I’m Not A Girl, Not Yet A Woman”

「私は、少女じゃない、だけどまだ女性でもない。」こんな風に訳せるだろう。思春期を迎えたブリトニーの、「狭間」を表現している。つまり、子供扱いされる少女ではないし、かといって、成熟した大人の女性でもない。独特の時期。(日本語では、これを「女の子」と表現できる。日本語の「女の子」は、とりわけ現在では、幼い子供だけでなく、二十歳を過ぎた女性にも使える言葉だから。)

宮崎駿は、ここに焦点を当てているのだと思う。「遊んでばかりいる、もののわからない子供の世界」と、「世間を渡っていくために、うまくやらなければならない大人の世界」との狭間にある、「女の子の世界」。

そのどっちつかずな、だけど、それゆえに底が知れないような、奥行きのある世界。それが、ジブリ映画のほんわかした、不思議な魅力の源泉なのではないだろうか。

そして、ジブリ/宮崎駿は、その女の子の世界を、とても多様に描き出す。女の子は「かわいい」だけじゃない。ナウシカは、「かっこよく」て、「大胆不敵」だ。シータは、反対に、「おしとやか」で、「神秘的」に見える。サツキちゃん(となりのトトロ)は、「しっかり者」の「お姉さん」で、「家族思い」。もののけ姫には、「野生」。ここには、沢山の個性がある。

しかも、それだけでなく、よく言われているように「人間的な成長」が描かれている点にも注目できる。キキや千尋は、映画の中の体験を経て、「少女」から「大人」へのステップを踏み出す。まだ、大人にはなりきれないのだけれども、その過渡期で、プロセスを確実にこなしていく。それもまた、この「狭間」の時期の魅力ではないだろうか。

まとめると、子供と大人との狭間の時期である「女の子の世界」において、「多様な個性」と「人間的な成長」を描き出すことが、ジブリ作品の魅力の源泉であると思う。

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4. どうして「女の子」でなければいけないのか?

ところで、ここで、素朴な疑問が浮かぶ。どうして「女の子」でなければいけないのか?

大人と子供の「狭間」の時期を描くのはいいが、それなら、なぜ、中心となる人物の性別が、ことごとく「女の子」でなければならないのだろうか。男の子の思春期では、いけないのだろうか。たとえば、聖司くんの心が揺さぶられたり、雫の前で戸惑ったりするストーリーではダメなのか。

一つには、女の子の方が、理由はよくわからないけれども、男の子よりも、魔法のようなオーラを、なんらかの秘密を、不思議な魅力を、備えているから。ともかく、そういう風に「一般的に」思われやすいから、とも答えられる。だが、それは、ジェンダー論的な意味での、「男性中心」の視点ではないか、と反論されるかもしれない。実際、その通りという気もする。

そこで、もう一つの理由に目を向けてみよう。それは、ずばり言うけれども、宮崎駿が「幼さの残る、大人になりきれない若い女の子」が好きだから、という理由だ。この点、人間的な関心だけでなく、異性への憧れもはっきりと含めたうえで、その存在に惹き付けられてやまないのだと、僕は思う。そして、たぶん、この理由が一番、大きいのだろう、とも。好きだからこそ、その世界の魅力を、あんな風に多様に描き出せるのだろう。

あえて、俗な言い方をすれば、制作者としての宮崎駿の精神には、「ロリコン」という言葉がぴったり当てはまると思う。「幼さの残る、若い女の子を(異様に)愛でる」という。それは、宮崎先生に対する冒涜だ、と思われるかもしれない。けれども、僕には悪く言うつもりはない。性は、古今の芸術の普遍的なテーマだし、制作者が、自分の独特な性へのこだわりを昇華させて、作品に仕上げるのは、すぐれたことだ。

ただ、「ジブリは、掛け値なく素晴らしい」という賛辞を割り引く効果は、あってもよいと思う。たとえば、「作品では、性的な要素が表立っていないから、宮崎駿も、性的な要素に無関心な態度で制作しているにちがいない。」とか「性的な要素をほとんど抜きにして、これだけ魅力ある世界を築き上げられるのは、魔法のようだ。」と、考えることの方が、よほど誤解を招くと思う。

この点は、僕ら観衆にとっても、他人事ではないという気がする。ジブリが好きな人は、男性にかぎらず、女性でも、子供でも、おおよそ、「幼さの残る、若い女の子が一生懸命に頑張っている」姿を見るのが、好きなのだ、ということ。そこに託す気持ちは、「我が子の理想」「ファンタジーの心地よさ」「感情移入」「異性への憧れ」など、それぞれだとしても。

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5. アメリカのお父さんへ。二つの物語のモデル。

こんな風に、ジブリにもまた、ある種の性的な要素が、魅力の源として織り込まれている。たしかに、それは必ずしもセクシャルな意味ではない。というのも、「大人の女性」は登場しないのだから。冒頭の、アメリカのお父さんが言うような、「性的な魅力」とは少しちがう。けれども、代わりに、大人と子供の間に立った「女の子の魅力」が外せないものだということ。これは忘れられない。

だとすれば、お父さんが図式化したように、「性的な魅力」対「関係性」といった仕方で、ディズニーとジブリを対比する試みは、うまくゆかないと思う。そんなに単純ではない。まして、結論部でお父さんが言うように、宮崎アニメの方がすぐれている、と言うのは、僕には言い過ぎだという気がする。(お父さんは、ほかの理由も挙げているが、そこは割愛。)

僕の方で、すごく単純な形で図式化し直すならば、ディズニーとジブリとは、

「王子様がお姫様を助けて、結ばれる話」と「幼さの残る、若い女の子が一生懸命、頑張る話」

という、二つの「物語のモデル」なのだと思う。どちらが良いというものではなくて、ただ、時代の流れとか、社会の空気とか、当世風の好みとか、そういうものに照らして、どちらかが良い、と、そのときどきで思われるのではないか。

いずれにしても、ジブリの魅力の源泉については、現在、「人間性」(ヒューマニズム)ばかりがクローズアップされて、評価されすぎているように感じる。あの不思議な空間の魅力は、「女の子の世界」を扱うからこそ得られる、という点にも、注目されてよいと思う。そこから、少し、ジブリ熱を冷ました見方も、できるようになるのではないだろうか。

2012年8月6日月曜日

札幌便り(俳文)


*俳句誌「ゆく春」に掲載予定の文章を、許可を得て転載。
 僕の作でない句は、作者名を明記。

札幌は開けた街だ。広々とした街並みに、木々の葉が揺れる。ここは緑の街でもある。大通公園は、市街地の真ん中を横切っているけれど、(これは、「公園」と言いながら、よくある、まあるい、しかくい公園とはちがう。街路樹に挟まれた、グリーンベルトみたいな地帯だ。)そこには、芝生、花壇、噴水がしつらえられ、季節ごとに趣を変える。

「開けた街」と言えば、開拓の碑文も、大通公園でリラの花に囲まれている。

開拓の碑文を遺すリラの花

リラの花は、ライラックとも言うけれど、北国の季語だ。六月にストーブが必要なほど冷え込むことを、「リラ冷え」と言い、これも春の季語になっている。

そんな季節に、札幌へ移住した。さっそく、新しい街の様子をお伝えしたい。まだ抜けない旅の気分とともに。

リラ冷や異国の言葉通り過ぐ (名寄 鈴木のぶ子)

この時期は、ちょうど観光シーズンの始まりでもある。リラの次には、ラベンダーも控えている。札幌では、よさこいや北大祭も相次ぐ。外国人観光客も増えるわけだ。

蒲公英の絮のゆくへや甃(ルビ:いしだたみ) (札幌 諸中一光)

そう、大通公園の甃の上にも、綿毛が舞い落ちる。こちらの蒲公英は数が多く、背は低くて、咲く時期は遅く長く、思い思いに絮となって、風に舞う。

六月は、ちょうどポプラの絮も飛ぶ季節で、白いもやもやとなって、道端に溜まる。今年は、道立美術館の敷地に、3センチも積もって雪のようだ、とニュースになった。

七月の末には、旭川を訪れ、句会に参加させていただいた。車に乗せてもらい、隣町を見下ろすキトウシの山の展望閣まで。

どこまでも青田に人のなかりけりキトウシの葉のゆったりそよぐ

緑の青田に、緑の木々が、印象的であった。

妖精の古里知りぬ糸とんぼ (旭川 谷島展子)

アイヌ語で「神々の庭」(カムイミンタラ)と呼ばれる、大雪山系。そこには、コロポックルでなくとも、なんらかの妖精が住んでいてもおかしくない。ちょうど、細いとんぼも飛んでいた。どこかへ招くように。

いま、カムイミンタラと書いたけれども、ただの伝承ではなくて、大雪山は霊峰であるように思う。いつも、旭川で特急を降りるたびに感じるのだが、空気がきつく澄んでいる。夏も、冬もそうだ。清い大気は、霊気を帯びるかに思われてくる。

新しくなった駅舎には、今年、石川啄木の銅像が建てられた。没後百年、旭川の地では四つの歌を詠んだらしい。

東京の友啄木にふれし夏 (旭川 華風女)

幾たびかお会いした風女さま。もう、札幌の友になってしまった。

八月になるが、暑い日は数えるほど。今朝は、長袖で北海道神宮へお参りに行った。東京なら、秋と言いたくなる風が吹き、桔梗の花が目に留まる。そばの碑石には、札幌市の創建120年を祝う文字が並ぶ。

ゆめ桔梗むらさきならん碑石の辞

こちらも、そろそろ生活の礎を築きたい。


2012年8月3日金曜日

音楽の聴き方の変遷ーーオーディオのゆくえ


音楽の聴き方が変わっている。どんな風に?

レコードに針を落として聞く時代を、僕は知らない。80年代に、ソニーとフィリップスが共同開発した、CD(コンパクト・ディスク)で僕は音楽を聴き始めた。その後、90年代にはMDが流行るのを見たし、それも2000年代には、iPodに取って代わられてゆく。そして、これからは……?

そんなデバイス(装置)の変化に伴う、音楽の聴き方の変遷を展望してみたい。

以下、とくに日本の若者世代(10代〜30代くらい)を念頭に置いている。

90年代は、CDの全盛期だった。1万円を切る、安価なCDプレイヤーが量産された。それは、「CDラジカセ」「コンポ」などと呼ばれ、CDのほかに、ラジオやカセットを聴けた。けれども、次第に、CDの再生に特化した機種も出てくる。音質の向上も見られた。これとは対照的に、カセットやレコードは、使われなくなっていった。

90年代には、MD(ミニディスク)も流行った。MDは、カセットとCDを掛け合わせたような製品で、CDより小さく、入れる曲を自分で編集できた。この二つの利点、携帯性がよいところと、自分で編集できるところが、MDが受け入れられた理由だろう。まず、携帯性がよくなったため、たとえば、ジョギングしながら音楽が聴けた。(CDでは、再生機が揺れると音飛びした。)次に、MDは自分で好きな音楽を入れて、並べるよう編集できた。これに対して、初期のCDは読み取り専用だった。96年以後は、CD-Rの登場で、CDメディアにも、好きな音楽を書き込めるようになったが、しばらくはMDの方が普及していたように思う。

2000年代に入ると、Apple社の携帯音楽プレイヤー "iPod" が、MDに取って代わる。2000年代の初めに米国で発売され、以後、日本でも徐々に知名度を増してゆく。デザインの良さも受けて、とりわけ、2000年代半ばから、爆発的に普及した。ソニーも、同じく携帯音楽プレイヤーである「ウォークマン」で対抗したが、iPodに分があった。

iPodにせよ、ウォークマンにせよ、使い方はよく似ている。基本的には、CDからパソコンに取り込んだ音楽を、今度は、パソコンから、携帯音楽プレイヤーに出力する。そうして、沢山の音楽(5分程度の楽曲ならば、数百曲〜数千曲という単位。)を小さなプレイヤーに記憶させて、持ち運ぶ。

そのため、聴き方としては、イヤホンが主流で、それに続いて、ヘッドフォンとなる。そして、家でスピーカーから聴くときには、1.パソコンとスピーカーをつなぐか(携帯音楽プレイヤーは使わない。)、2.携帯音楽プレイヤーからスピーカーへ出力するか、3.携帯音楽プレイヤーを、じかに接続できるオーディオ機器を使うか、といった選択肢になる。

ここで、面白いのは、90年代〜2000年代を通じて、携帯音楽プレイヤーが、オーディオ・メディアの主流になってゆくことだ。もちろん、据え置きのオーディオも進化していた。記録メディアは、より高音質なSACD(スーパーオーディオCD)を生み出したし、再生機も、スピーカーも、100万円を超える製品が開発された。(値段は、上を見ればキリがない。)けれども、こうしたオーディオは、どちらかと言えば「高級な」製品であり、こだわりをもたない主流の購買層は、携帯音楽プレイヤーに流れたと言ってまちがいない。

こんな風に、iPodを始めとする携帯音楽プレイヤーが流行した理由としては、さきのMDのときに挙げた「携帯性」と「編集」できるという利点のほかに、さらに記録媒体が「大容量」になって、沢山の音楽をまとめて持ち運べるようになった点が挙げられる。

他方、こうした携帯音楽プレイヤーのデメリットとしては、まず、「パソコンを経由」させる手間が挙げられる。CD→パソコン→プレイヤーへと、音楽を移さなければならない。これはまどろっこしい。しかし、実際には、あまり面倒だという声を聞かないようである。理由はよくわからない。次に、「音質の劣化」がある。これらのプレイヤーでは、沢山の音楽を入れるために、CDよりも音質を落として、データ容量を小さくする方法がとられた。そのため、音質が悪くなる。けれども、大半の聴き手には、(緻密なクラシック音楽を静かな環境で聴くのでもなければ、)音質の劣化は気にならない、と受け止められたようである。現在、ほとんどの聴き手が、音質を落として音楽を携帯しているようである。

さて、ここまでの流れをまとめてみよう。90年代以後は、CDとMDが普及し、「携帯性」と自分で「編集」できる点が、聴き手に喜ばれた。さらに、2000年代に入ると、それに加えて「大容量」である点がポイントになった。こうして、音楽の聴き方は、沢山の音楽を、自分の好みの内容にして、持ち運ぶ、というスタイルへと収束してゆく。

2012年現在も、この傾向は続いている。iPodの売れ行きは、徐々に落ち込んでいるが、その理由は、主として、スマートフォンが携帯音楽プレイヤーの役割も果たせるようになったため、であり、音楽の聴き方の傾向は変わっていないと思われる。つまり、iPodがスマートフォンに置き換わる場面もあるだけで、携帯性・編集・大容量、を好むというポイントは変わらない。

では、これからの音楽の聴き方は、どんな風に変化してゆくだろうか? 現在、種がまかれ、次第に芽吹いていると思われる、新しい技術に着目しながら、その普及を予想してみよう。ここでは、家で聴くスタイルについても見ていく。

この1年、もっと短く半年をみても、目につくのは、ワイヤレス・オーディオの数が増えていることだ。「ワイヤレス・オーディオ」というのは、いま作った造語だけれども、その名の通り、ケーブルを使わないオーディオ機器を指す。具体的には、Bluetooth(ブルートゥース)と、無線LAN(むせんらん)を利用するものが挙げられる。

Bluetooth(ブルートゥース)は、小規模なデータを飛ばすやり方であり、たとえば、マウスやキーボードを、パソコンとケーブルでつながずに、使うときに用いる。この技術によって、音楽を「飛ばす」こともできるので、Bluetoothのスピーカーやイヤホンを使えば、再生機とは離れた状態で、ケーブルなしで、音楽を聴ける。

Bluetoothを利用して音楽をワイヤレス(無線)にするやり方は、数年前から使われてきたが、送信・受信のために、イヤホンが大きく重くなったり、プレイヤーがそもそもBluetoothに対応していなかったり、と不便な点、普及を妨げる要素が、いくつかあった。いまは、Bluetoothも軽量化したし、多くのスマートフォンやタブレットに実装されている。そして、なによりもBluetooth対応の製品が安価になった。(数千円のスピーカーもある。)これからは、スピーカーでもイヤホンでも、Bluetoothで音楽を「飛ばし」て聴く時代が来るだろう……。

ただし、Bluetoothにもデメリットはある。一つは、音質が劣化すること。現在の技術では、音楽のデータを、CDの基準よりも、小さくしないと、使えない。それで、音質が悪くなる。とはいえ、Bluetoothを高音質にする技術(apt-X)も開発されている。また、2000年代の「聴き方」史を通じて、音質の劣化は、ほとんど抵抗を持たれなかったことを考えると、この点はたいして問題にならないかもしれない。もう一つのデメリットは、値段の高さと、Bluetoothを搭載した機器(送信側も、受信側も)が少なかったことである。しかし、現在は、Bluetooth機器が廉価になってきているし、多くの製品に実装されてきている(聴き手が、わざわざ、その有無を気にしなくてもよいくらいに)ので、普及の鍵はそろっていると思う。

もう一つの技術、無線LANを利用するものについて。無線LANは、もともと、パソコンをワイヤレスでインターネットにつなぐために、普及した。これによって、ノートパソコンを、家中どこでも持ち歩いて使う、といったことができるようになった。この既存の無線LANを用いて、音楽を「飛ばす」技術が、最近、注目を浴びている。

この方式は、Bluetoothのような音質の劣化が起こらない、というメリットがある。それは、無線LANが、もともと大容量のデータを高速で通信する技術だからである。一方、デメリットとしては、まだまだ対応する製品が少ないことと、高価なことが挙げられる。付け加えれば、いまのところ、設定が面倒で、一般的なユーザーが、かんたんに使い始められるようにはなっていない点も、挙げられる。それゆえ、Bluetoothに比べて、普及の障壁はやや高い。

はじめて、この技術を製品化したのは、Apple社だと思う。少なくとも、いま、"AirPlay"(エアプレイ)というブランド名で先端をゆき、支持を得ているのは、Apple製品である。この技術は、実は、10年近く前から実用化されていたのだけれども、ほとんど日の目をみなかった。それは、当時、Apple社のMac(パソコン)を使わないとならず、また、Appleがオーディオのブランドとして、いまのように地位を築いていなかったためだろう。いまは、大ブレイクしている、iPhoneやiPadを使っても、AirPlayを楽しむことができる。

さらに、ここ1年から半年ほどの間に、Apple以外のメーカーも大きく動いている。いくつかのメーカーによって、無線LANを利用して音楽を「送信できる」製品と、とりわけ「受信できる」オーディオ機器が、続々と、製品化されている。その中で、低価格化も少し進み、先日、発表されたパイオニアのスピーカー(2012年8月下旬に発売予定。)は、25000円まで下がった。JVCケンウッドも、実売価格40000円ほどで、無線LAN対応のコンポ(CDやラジオも聴ける、スピーカー付きの再生機。)を発売する予定だ。ちなみに、これらのスピーカーやコンポは、iPhoneとiPadからも、音楽を受信できる。また、一般のパソコンからも、iTunes(ソフト)をインストールしたものであれば、これらの機器で、音楽を「受信」できる。今後、各社がこの技術を備えた製品を発売すれば、よりいっそう、低価格化と一般化を見込めると思う。

このように、今後の「音楽の聴き方」は、ワイヤレスが主流になっていくだろう。まず、イヤホンやヘッドフォンと、スピーカーでは、低価格のBluetooth製品が増えていくだろう。そして、家でゆっくり聴くときには、無線LANを利用したコンポやスピーカーが、より一般的になっていくと思われる。これからの「音楽の聴き方」のキーワードは、「携帯性」「編集」「大容量」に加えて、四つ目に「ワイヤレス」が挙がる、と考えても良さそうだ。

2012年8月1日水曜日

アメリカの詩(うた)と、多様性を楽しむこと


ネイティブ・アメリカン、銃、ヘンリー・D・ソロー、フォード、世界恐慌、ディズニー、ベトナム戦争、Simon & Garfunkel、エルトン・ジョン、キング牧師、プラザ合意、小沢一郎、Windows、M&A、リーマン・ショック、強欲資本主義、Apple。

こんな風に、アメリカの詩(うた)を歌うことができるだろう。どこまでも。そこには、多様性がある。

ソローは、『森の生活』(原著:『ウォールデン』*池の名前)で有名な19世紀の哲学者だが、世捨て人とはほど遠く、『市民の抵抗』という本も記している。

フォードは、車の大量生産体制を敷いた会社。アメリカを風刺するなら、「銃、車、マクドナルド」というタイトルで、(たとえば)映画を作ることもできるだろう。

サイモン&ガーファンクルは、"America"というタイトルの曲を1971年に発表している。ある記事によれば、この曲は、60年代半ばまでに作られたもので、アメリカの喪失感を表したものだという。(参考URL:http://www.magictrain.biz/wp/?p=2433 )

エルトン・ジョンも、Rock'n'roll のミュージシャンだが、ベトナム反戦歌を作っている。ふだんは、POPなシンガーなのだが。

キング牧師の有名な演説は、"I have a dream..."で始まる。良きアメリカを作ること。被差別の立場から立ち上がり。

プラザ合意と、「強欲資本主義」(*新書の書名より。)によるリーマン・ショックは、日本経済と社会に大打撃を与えた。それを批判する、アンチ・アメリカの言説が、WindowsとiPhone(*Apple社の製品)の画面上に流れる。

こういった状況は、混沌としているように見える。あるいは、快刀乱麻を断つように、アメリカ・バッシングに傾倒することもできる。

アメリカの大自然や、それを愛する哲学。POPソングにも、Rock'n'rollにも息づいた、まっとうな批判精神。テクノロジー。こうしたものが、もろもろの悪しき、荒んだ精神や行為と、同居している国。

僕は、アメリカに多様性を見つけていたい、と思う。ただし、それは、よくある仕方で、「アメリカ」を多様性の代名詞にして、ポジティブに捉え直すためではない。つまり、「多様性のアメリカ、万歳!」という仕方ではなく。同じことは、どこに対してでもできるのだから。その、多様性を見つける、ということは。

それ(たとえば、「アメリカ」)が、単純に良いか、悪いか、という話をせずに、つぶさに観察して、そこに万華鏡のような多様性を見出すこと。

それは、たとえば一人の友人に対してもできる。小さな子供に対してでも、できるだろう。そんな風にして、いつでも、「善悪」の判断を保留できる地点を、忘れないでいたい。健全な判断力を、批判精神を養うこととは、べつに。(それもとても大切なことなのだが。)そう、多様性を見出すとは、善し悪しの判断を下す、手前の状態を楽しむこと。礼賛と非難に分かれる手前で、一枚の絵画を見るように、全体のあちこちへと視線をゆきわたらせること。

多様性を楽しむこと。それは、意見と主張と、また意見にあふれた、言論のネット空間にも必要なことではないでしょうか。

2012年7月21日土曜日

音楽と余裕

最近、僕は、札幌で、三日ほど、地元のミュージシャンたちが活躍するLIVEを観た。みな、手売りで自主制作CDを売っているような若者たち。Ustreamでインターネット配信したり、路上で演奏したり。とても活気がある。楽しかった。

ここでは、今昔取り混ぜて音楽シーンを思い浮かべながら、ある時代に生まれる音楽と、制作や鑑賞する僕らの心の余裕について、考えてみよう。

タルカスは、衝撃的な音がする。エマーソン・レイク・アンド・パーマーというバンドが、1971年に発売したアルバムで「プログレ」(=プログレッシブ・ロック)と呼ばれるジャンルの音楽となる。「タルカス」は、アルバムの名前で、そのジャケットに描かれた、戦車とアルマジロを組み合わせた、へんてこな化け物の名前でもある。意味はない、らしい。

ビートルズが活動したのは、1960年代のほぼ10年間だったけれども、彼らもさまざまな音楽を残した。サイケデリックなミュージックも、シャウトするロックンロールも、コンセプト・アルバムも、意味の分からない歌詞を連ねたような音楽も。巷では、イエスタデイ、レット・イット・ビーやヘイ・ジュードといったメロディアスな歌が、もっぱら有名かもしれないが。

ビートルズが好きだった若者たちには、ヒッピー的な傾向も見られた。東洋的な、なんとなく神秘主義で、文明から距離を置く、そういう生活に憧れたヒッピーたち。実際、ビートルズ自身がインドへ旅している。たしか、メンバーのリンゴは食べ物が合わなくて、早くに帰国したような。日本では、沢木耕太郎の『深夜特急』(インドの場面から始まる。)が、旅する人たちの間で「バイブル」的な扱いをされていたのを、いまの若い世代も知っている。彼のユーラシア横断は、1970年代だった。

やっと日本へ話が戻ってきた。もちろん、日本の音楽シーンをまとめるような仕事は、とてもできないが、ひと言、ふた言、なにかを言いたい。90年代は、J-POPの音楽環境の全体に、活気があったように思える。「よい音楽」が生まれた、かどうかは、言えないけれど、少なくとも経済的には音楽業界は、潤っていた。小室哲哉さんは、何億も稼いで話題になった。中高生も、CDを買うことが一つのかっこよさ(ステータス)であり、抵抗なんてなかったように思う。

2000年代になって、そのどこで区切ればよいのかわからないが、CDが売れなくなった。YouTubeで音楽が聴けるし、TSUTAYAやゲオで、1枚200円〜でCDが借りられる。携帯音楽プレイヤーの「iPod」が流行って、パソコンに取り込まれた音楽が消費される。CD文化は、レコード文化のように、衰退しているのかもしれない。(パソコンへの取り込みを防ぐ「コピーガード」は、支持を得られずになくなっていったし、音質のいいSACD(スーパーオーディオCD)も、あまり出回っていない気がする。むしろ、音質の悪いMP3ほかのデータ形式で十分、という人が圧倒的な多数派になった。)

2011年のCDランキングは、「AKB48」と「嵐」の2グループが、ほとんど制覇する形になったが、彼らの本業はバンドではなく、タレントだろう。テレビで見られる、生で観られる、というアイドルたちへの親しみを込めて、CDを買うような文化に、音楽業界も移りつつあるのだと思う。(ちなみに、それは、有名なアイドルにかぎらず、手売りでCDを売るインディーズのアーティストたちも同じだと思われる。)こんな風に、CDという媒体を取り巻く状況、音楽を聴く場面(たとえば、iPodの登場。YouTubeによる視聴。)が、変わりつつある。

そういうわけで、日本の音楽シーンは、ここ10数年で大きな「環境」の変化を経験した。だから、ここで重要なことは、「音楽の質」について云々するのは、だいぶ難しいということ。また、それは音楽シーンの変遷に関する、大きな原因にはなりにくいかもしれない、ということ。たとえば、「90年代には、「すぐれた」アーティストが、「新しい」音楽を作り続けていたのに、それに比べて、いまは……」といった議論は、できない。いろいろな条件をつけて、特定の視点から解釈しなければ、そういう結論をすぐには、導けない。今のアーティストが悪くて、昔のアーティストが良い、という話にはならない。

けれども、音楽の質について、一つのことが言えるように思える。それは、「J-POPという音楽から、心の余裕(のようなもの)がなくなってきている」ということ。タルカスのような、挑戦的な、聞き手を払いのける戦車のような音楽が注目されることもないし、ヒッピー的な、世の中から外れていく音楽も、受けていない気がする。(ただ、不思議な感じのする音楽、必ずしも、歌詞が意味の分かるものではない音楽は、ある程度、支持を集めているように見える。)

実際、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)であれ、ビートルズの風変わりな音楽であれ、なんでもよいのだが、前衛的なものを受け入れる余裕が、聴衆の側になくなっているのではないだろうか。または、「前衛」にかぎらず、まったく新しいものを待望する心持ち、になれないのではないだろうか、アーティストも、聴く側も。耳に馴染むもの、そっとしておいてくれるもの、ふんわりしたもの、やわらかいもの、刺激が強すぎないもの。そういうものを音楽に対して欲するほど、聴く行為に、余裕がなくなってきているのではないだろうか……。

「AKB」も「嵐」も、顔の見える、メディアで親しみのある、笑顔のやさしい、話せば楽しい、アイドルたちである。彼らが、可愛く、または、格好良く、歌を歌ってくれる。一つのパフォーマンスとして。その欠片としてのCD。他方、アイドルではなく、音楽業界の中で活況を呈しているのは、ミスチル(Mr.Children)あたりだろうが、彼らの音楽は、初期から一貫して、心の襞に分け入るような音楽、直接的な表現も、やんわりした表現も、両方を用いながら、そっと凝りを解きほぐして、撫でてくれるような、音楽である。ヒューマンな(人間味にあふれて、寄り添ってくれるような)音楽。「心地よい音楽」。(……少なくとも、僕にはそう聞こえる。)

2010年に前後する僕らは、もはや「革新的な」音楽を、「前衛的な」「変な」あるいは「古典的な」etc. 音楽を求められないのかもしれない。音楽を聴く心に、それだけの余裕がなくなって。こう言うと、批評家のニーチェ主義者なら、「心地よいものばかり欲する、飼い慣らされた現代人め!」と吐き捨てるところだろうが、僕が言いたいのは、そういうことではない。これは好みだけの問題ではなくて、精神的にも、経済的にも「余裕」がないような、社会状況を鏡のように映す問題である、と思われるから。

札幌のLIVEで僕が聴いた音楽も、「心地よいもの」が多かった。中には、反対に、死に物狂いでなにもかも否定するようなアーティストもいたけれど、それはそれで、やはり余裕のなさの表れではないのか。彼らは、音づくりにも、歌い方にも、工夫しながら、僕にも、いろんな意味でいいな、と思える音楽を作っていた。けれど、そうだとしても、根底には、そういう流れを共有しているように、思えた。心に余裕のない時代の音楽、という……。

そろそろ結論の段になったけれども、どうだろう。僕らにできることは、それでも、マイナーなところで、ちがう流れを探り、たどっていくことなのだろう。ちなみに、僕は30歳前後だけれど、もっと年配の方々からは、「ジャズが心の余裕から生まれたと思ってんのか? 1960年代がベトナム戦争の時代だって、わかっているのか?」といったお叱りを受けるかもしれない。「それでも、時代の逆境に耐えて、彼らは「よい」「新しい」音楽を作ったんだぜ?」と。そう、僕らにもいろいろなことができるだろう……。とりあえず、音楽を聴こう。音楽をやろう。音楽を見よう。そこから、音楽が芽吹く。

2012年4月18日水曜日

くるりとベケット


 これは、くるりとベケットについてのエッセイなのですが、「くるりと」は副詞ではありません。「くるり」と「ベケット」について、なのです。「くるり」は、J-POPのアーティストで、ポップソングを作詞・作曲して、歌っています。「ベケット」は、サミュエル・ベケット。20世紀の風変わりな小説家・劇作家ですね。ノーベル賞の授賞式に欠席した、という逸話も有名です。

 くるりとベケットは、似ているな、と思ったのです。どこが似ているのでしょうか。だいぶジャンルは、かけ離れています。日本人にとっては、くるりの方が馴染み深いでしょうか。それとも、20世紀文学を代表する一人、ベケットと並べては、おかしいくらい、くるりの方がちっぽけでしょうか。ともあれ、僕としては、両方を知っている人(とりわけ、両方とも好きです、という方)がどれくらい、いるだろう、と気にかからないでもありません。(街頭アンケートをとったら、5%くらいじゃないでしょうか。)

 ですから、くるりとベケットの紹介から、始めたいと思います。
「くるり」は、バンド名ですが、結成当時から続いている、メインのメンバーは二人です。そのうちの一人が、ほとんどの曲の作詞・作曲を手がけています。岸田繁さんですね。

 YouTubeのリンクを貼ってみます。ついでに、歌詞も。代表曲の一つ、「ばらの花」ですね。

動画:http://youtu.be/lgVdcRvcUOs
歌詞:http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=66019

(以下、歌詞の引用は、JASRACの許可が要りそうなので、割愛して、内容をほのめかすだけにします。)

 この歌のうちで、歌い手は「ジンジャーエール」を飲んでいます。「僕ら」は「安心」だから、「旅に出よう」と言うのが、サビの部分で、全曲を通して、繰り返されます。途中、「君」とか「最終列車」が出てきますが、よくわからないまま、「ジンジャーエール」はこんな味だったっけかな、と気怠そうに連呼して、歌は終わります。

 だから、なんなのか、と言われると、よくわかりません。メッセージもなさそうだし、とりあえず、ジンジャーエールを、部屋で一人で飲んでいるような光景が浮かびます。安い、けど、ちょっと美味しい、庶民風に洒落てみました。そんな炭酸飲料です。そして、「安心なら旅に出よう」と持ちかける。わかったような、やっぱりわからない理由。

 「くるり」の歌は、どれもこんな調子で歌われます。つまり、全編を通して物語になっているわけでもなく(BUMP OF CHICKEN(バンド)は、物語風ですよね)、恋愛の機微や人生の問題に一生懸命なわけでもなく(Mr. CHILDRENは、そういうことに熱心な作風ですね)。かといって、単純明快に、「元気を出そう!」とか「僕らはみんな一つなんだ」とか……そういったありふれたメッセージを打ち出すわけでもないのです。

 それでいて、彼らは、まったくの「ナンセンス」を目指してはいません。80〜90年代のフリッパーズギターのヒット集や小沢健二を聞いていると、あからさまにナンセンスな歌詞が続き、それは2000年代のスピッツにも受け継がれているようなところがある、一つの潮流です。(かつてのバブリーな気前の良い雰囲気はもうないとしても。)

 そんなわけで、くるりのオリジナリティーは、とても捉えにくいものです。なんと言ったらいいのか、彼らの歌い方には、「思いつきをそのまま呟いた」ような歌詞と同じく、どこか自然と「話しかける」調子があります。その奇妙な日常性が面白いのです。他方で、彼らにないもの、それは「物語」「恋愛」「人生」といった大きなテーマ、読者への「メッセージ」、仕掛けとしての「ナンセンス」等々。彼らには、既存の「文学性」がないのです。

 ベケットもそうでした。「ゴドーを待ちながら」という戯曲は、とりわけ著名ですね。「ゴドー」を待つ人々が、とりとめのないやりとりを続ける。それで、終わり。「ゴドー」は来ないまま、終幕です。初演の時、パリの小劇場だったと思いますが、観客は、ちらほらと帰ってゆき(2時間くらい上演にかかったはずです)、終わりまで観た人は、ほとんどいなかったそうです。

 しかし、この「わけのわからなさ」が、かえって、とても面白いのではないか、と評価が高まります。この戯曲、そもそもタイトルの「ゴドー」が、人の名前なのかも、わかりません。ひょっとして、団体名なのか、ものの名前なのか。劇中では、触れられていないのです。ある評論家は、「ゴドー(Godot)とは、「ゴッド(God:神)」のことなのか」と、ベケットに質問したそうです。ベケットの答えは、「それなら、そう書いた」。

 ベケットの戯曲は、全集も出ていますし、「ベスト・オブ・ベケット」という3巻本の選集でも、読めます。僕はこちらで読みました。奇妙な男の一人語り、バナナの皮ですべる、体をもたずにしゃべる口、肩まで地面に埋まった女性が傘をさす、不条理とも奇妙とも言える演劇が集まっています。

 そこには、「文学的」な大テーマ、メッセージ、そして露骨なナンセンスさえ、見られません。戯曲の登場人物たちは、ちょうど、彼ら自身の日常生活を送るように、ふだんの調子で、話をするのです。ただし、だいぶ異様な状況下で。

 もっとも、ベケットの解釈は、さらに大きな多様性をもちうるでしょう。けれども、ここでは、ベケットの革新性を「厳しい現実がひっくり返った状況としての、奇妙な日常性」とまとめてみたいと思います。

 くるりとベケットは、それぞれ90〜2000年代の日本の閉塞、二つの大戦と異国での生活という、厳しい現実を目の当たりにして、芸術家人生を築きました。ベケットは、戯曲ならではの、また、彼ならではの芸術性で、現実をひっくり返すように、おかしな世界を描きます。くるりは、むしろ、ごちゃごちゃした現実の隙間へ、謎めいたフレーズで、ふとした日常性を紛れ込ませます。どちらの場合も、それは、奇妙な日常性です。

 くるりとベケットは、どちらも、厳しい現実をロマン的に美化しなかった。「醜悪化」もしなかった。そこに救いを求めもしなかった。また、現実を「超えて」いかなかった。(超現実。シュルレアリスム。)そして、まったくのナンセンスへと逃避もしなかった。そうした意味で、彼らは既存の「文学性」を、それぞれの分野で、つまり、J-POPと演劇界(ないし「文学界」)で、乗り越えたのだと思います。

 くるりもベケットも、どこか地に足がついているようなところがあります。「どうして?あんなにわけがわからないのに?」ーーそう、それは、現実に密着しているという意味でのリアリティではありません。けれども、芸術の高みから世界を見下ろさないのです。一人の人間が、そこを歩いている、と言いたくなるのです。

 僕らは、厳しすぎる現実のさなかで、「くるりと」きびすを返せるのではないでしょうか。気の抜けた「ジンジャーエール」のような、曖昧で、奇妙な日常性の中で、なにをするでもなく「ゴドー」を待ちながら、当たり前みたいな顔をして生活することが、できるのかもしれません。それは、夜空に輝く星のような希望ではなくて、ささやかな石ころのような希望なのでは、ないでしょうか。

おわり

追記:くるりのCDでは、ベスト盤(2つあります。)が、入門にはおすすめです。また、ふつうのアルバムからは、「ワルツを踊れ」を勧めたい気がします。クラシック風の音作りと、バラードからロックまで幅広い曲調、わかりにくい歌詞から単調な歌詞まで。くるりの個性が、とりわけ面白い形で出ていると思います。

2012年3月31日土曜日

ホワイト・シューベルト

シューベルトは白い。真っ白い。それは、曇り空の下の雪原のようでもあり、そこには寒さと死も横たわっている。 シューベルトは、1797年にウィーン郊外に生まれた。わずか31歳で人生を閉じる。1828年のこと。ベートーヴェンの生没年が、1770年ー1827年だから、ベートーヴェンの晩年に、ちょうどシューベルトの短い人生がかぶっている。シューベルトは、ベートーヴェンを尊敬し、どこかで彼の精神を引き継いでいた。

シューベルトは、歌曲で有名だけれど、「魔王」「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」……これらの有名なタイトルは、みな暗い歌詞を持っている。魔王では、父親を呼ぶ子供の命が尽きる。水車小屋の娘では、青年が、恋に破れて小川に語りかけ、おそらく死ぬ。(詩の解釈によるけれども。)そして、冬の旅には、主人公の死こそないが、かえって、それゆえに一切の希望が絶たれた感だけが残る。 もちろん、シューベルトの「愛らしい」歌曲には、ゲーテの詩に基づいた作品、力強い、またはやさしい、自然美を歌った、明るい曲調の歌曲もある。なにより、「未完成」がとりわけ有名な、あの交響曲たちは、どれも晴れやかでわかりやすい音色がする。けれども、僕には、シューベルトは、生涯の制作を通じて、真っ白な死と、向かい合っていたように思えてならない。

シューベルトをめぐるエピソードを二つ。

一つは、友人との会話。「僕が死んだら、家の前に立て札が立つよ」と、シューベルトは言う。友人は笑った。「それは、有名な音楽家の話だろう?」シューベルトの答え。「"貸し家あり"ってさ」。

もう一つは、ベートーヴェンが死んだとき。残念ながら、いま手元に資料がないので、正確な引用ではないが、シューベルトは、悲愴な調子で「ああ、ベートーヴェンが死んだ。あとは、僕が書くしかない」といった台詞を吐いたそうだ。
(二つのエピソードの出典は、『シューベルト』,喜多尾道冬,1997,朝日選書)

「貸し家あり」の方は、ユーモラスである。面白おかしい。しかし、そんな立て札しか残らない、という笑いには、うら悲しいアイロニーの影が見える。他方で、ここには、シューベルトの自負心も窺えると思う。彼は、おそらく、本当には、「いや、自分の死後、なんらかの記念碑が残されるはずだ」という妙な確信を抱いていたのではないか。そうでなければ、たとえ冗談であるにせよ、「僕が死んだら、家の前に立て札が立つよ」というような、誇大妄想的な出だしで、冗談を言わなかっただろう。
その自負心を裏付けると思えるのが、ベートーヴェンの死に際して、自分がその後継だと、吐露した言葉だ。それは、彼にとって自信や誇りというより、使命のようなものだったろう。

シューベルトは、おそらく、自分がベートーヴェンのように「偉大な作曲家」になれるとは、思っていなかった。「偉大」というのは、音楽の水準で、どちらが偉い作品か、という話ではなく、音楽を作る根源にある、精神性の話だ。シューベルトは、不撓不屈のベートーヴェンにはなれなかった。けれども、天賦の才能に基づいて書くことはできた。今風の言葉で言えば「自己実現」や「自己表現」のために音楽を作るのではなく、「音楽そのもののために音楽を作る」という精神、いわば自己を捨てて、ちっぽけな感情を度外視して、芸術の持ちうる普遍性のために、作曲するということ。そういう偉大さを、ベートーヴェンと響き合うようにして、シューベルトは持ち合わせていた。そんな作曲ができるのは、あの「自己」や「過度なヒューマニズム」が濃厚に渦巻いていたロマン主義の時代にあって、ごくわずかな天才だけであった。シューベルトは、自分がその一人であると、どこかで自覚していたように思う。(シューマンは、シューベルトと似た者同士のように語られがちだけれど、僕には、その精神性において、対極に位置するようにすら、思える。)

そうして、晩年のシューベルトは、「冬の旅」という歌曲集と、「後期作品」と呼ばれる、3曲のピアノ・ソナタを遺した。冬の旅については、さきにも触れたけれども、歌詞ばかりでなく、曲調にも救いがない。そして、3曲のピアノ・ソナタについては、ヴァレリー・アファナシエフというピアニスト兼詩人評論家のCDが、参考になる。それは、ものすごく長い録音(通常の演奏の1.5倍ほど、時間がかかっている。)で、解説には、それら作品の「天国的な長さ」(もともとは、シューマンがシューベルトを批評した言葉)について、むしろ地獄のようであると、述べている。なるほど、アファナシエフの演奏からは、延々と引き延ばされる旋律の奥底で、真っ白な悲しみが歌っているのが聞こえる。行き場もなく、ベートーヴェンのように激情となってほとばしることもなく、ただただ、真っ白い雲の中を、果てしない階段を上り続けて、そしていつまでも天国に辿り着かずに、いつしか終曲する、というような。

「貸し家あり」のユーモアは、僕には、「ブラック・ユーモア」という既存の言葉になぞらえて言えば、「ホワイト・ユーモア」と名付けられるように思える。そして、彼の最晩年の作品群、「冬の旅」と3曲のピアノ・ソナタを聴いていると、僕は、作曲するシューベルトは「心」をもたなかった、と言いたくなる。ただただ無意味にうらぶれてゆく生のうちで歌い続ける、美しい旋律は、なにかを表現した美しさではなく、感情を抜きにして、「心」なしに、純粋に音楽的にのみ、ただ音符を並べて、紡がれた旋律であるように思えてならない。そこには、生の温度をなくした、雪のように真っ白な心が、見透かされる。そんな風に、シューベルトについて考える。

2012年2月17日金曜日

『珈琲と吟遊詩人』への訂正コメント


『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』を刊行後、内容の訂正に関するコメントを複数いただきました。それを取り急ぎ、以下に掲載いたします。

先日、リュート協会の宮武隆様(理事)から、拙著『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』に関して、会報誌に紹介したいとの連絡をいただきました。やりとりの結果、宮武様が、渡辺広孝理事長による本書への批判的なコメントを、簡潔に編集・まとめて送ってくださいました。これは、当の会報誌にも載る内容だそうです。許可を得て転載いたします。

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*渡辺理事長のコメント*

・著書の中に「リュートで単弦が複弦になったのも、15世紀の半ばから後半にかけて、と見られています。」と書かれていますが,これはリュート界の定説とは違います.これ以前の古い絵画などの視覚史料ではほとんどのリュートが複弦であることから,むしろヨーロッパに伝わった当初から複弦であった可能性が高いと思われています.

・ドイツのリュートについての記述「ドイツでは15世紀中頃には6コースまで付け加えられたようです」も気になります.ドイツ式タブラチュアの記譜法が最初は5コースリュートに対して作られているからです.従って最古のタブ譜は5コース用です.つまり15世紀中頃はまだ5コースだったことになります.

・また,放浪芸人が維持するにはリュートは高価すぎるので、持っていなかったと考えられることを、指摘しておきます.
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◆ 最初の指摘については、僕は「15世紀の半ば頃に複弦についての最初の記述が見られる」という資料から、「その頃に複弦が登場したのだろう」と推測したのでした。他方、「視覚資料」の調査は不十分でした。

◆ ふたつ目の指摘については、曖昧な部分がありました。以下に詳述します。
・1500年以前のリュート・タブラチュア(リュート用の楽譜)のリストが、こちらに載っていますが、そもそも「資料がわずか」だと書かれています。ドイツで発見されたリュート・タブラチュアは4つしか載っていません。たしかに、いずれも5コースのリュートのためのものですが、うち2つは類似が指摘されているため、同一のタブラチュアから派生したとも考えられます。また、1つは歌のためのタブラチュアかもしれず、リュートのためと確定していません。したがって、これだけ資料が少ないなかで、楽譜だけを根拠に「15世紀中頃のリュートはすべて5コースだった」とは言い切れないように思えます。

さらに、5コースと6コースのリュートが共存していた(現在のルネサンス・リュートが6〜8コースまで幅があるように)可能性も考えられます。

また、当時の音楽理論家であったヨハネス・ティンクトリス(Johannes Tinctris)の著書("De inventione et usu musice" 1480年にナポリで書かれている)によれば、「最近、ドイツのリュート奏者によって6コース目がつけ加えられた」とのこと。それゆえ、ドイツのリュートは15世紀のうちに6コースになっており、少なくとも1480年には、その情報がイタリアまで伝わってきたことになります。

結論としては、ドイツで6コース目がつけ加えられたのは15世紀「中頃」と書くのはたしかに不正確であり、「15世紀後半には6コースが現れていたようだ」の方が正確です。ただし、5コースから6コースへの変遷については、上記のように、確定しづらい、曖昧な問題領域が残されています。(*)

この点については、音楽家の西垣林太郎氏よりおおいにご助言を賜りました。お礼を申し上げます。ご自身のブログでもこの「15世紀中頃リュートのコース数」問題を投稿されました。こちらです。

◆ 最後の一点、「放浪芸人はリュートを持っていなかった。(リュートは高貴な人々の楽器だった。)」については、疑問が残ります。たとえば、「ダンスへゆく人々を導くリュート奏者」の図像(p.126)に描かれたリュート奏者が、宮廷人や高貴な人物だとは、思えません。庶民(放浪芸人)にも、安物のリュートが出回っていた可能性は、あるのではないでしょうか。(この点については、訂正コメント2へ続く)。

・東京大学、科学史・科学哲学科の先生からは、拙著の「中世ヨーロッパの外科は、床屋がやっていた」(p.133)という記述に関して、訂正をいただきました。中世ヨーロッパでは、外科手術は、「床屋」の副業のほか、専門の「外科医」によっても為されていたとのことです。

この場を借りて、ご指摘いただいたことに感謝いたします。

* 論文:"Johannes Tinctoris on the Invention of the Spanish Plucked Viola" In Music Obsevad: Studies in Memory of William C. Homes (Harmonie Park Press, 2004), pp.321-322 Series Title: Detroit monographs in musicology / Studies in music, no42
著者:Minamino Hiroyuki, UC Irvine を参照しました。こちらで全文を読めます。

この論文、および著者については、西垣林太郎氏(@qu_cerca_trova)からご教示いただきました。まことにありがとうございました。

追記:このブログ記事は2016年2月16日に最終加筆しています。なお、文中に「渡辺理事長」とありますが、渡辺氏はいまは退かれ、「元理事長」です。日本リュート協会HP

木村洋平