2019年3月31日日曜日

新しいことを始めようと思ったら…


新しいことを始めて続けようと思ったら、「愛されること」は大切だ。

ファンや見守ってくれるひと、相談に乗ってくれるひとに囲まれること。

だけど、最初から、愛されることが目的にならないように。芯がブレてはいけない。

じぶんのよいと思ったことをまっすぐにやる。

だけど、と、また「だけど」が付くのだが、「なんでもじぶん基準で進める」とひとがついてこない。

世間からどう見えるか、手伝ってくれるひとは何を考えているか、いまのトレンドはなにか。

こういうことに気をつけてこまかいところはゆずる。でないと、ただの「こだわりが強いひと」になる。

……と、いままで「本のカフェ」その他、企画にかかわってきて、漠然と考える。

2019年3月26日火曜日

作家にとって大切なもの、みっつ…?


かつてイタリアはトスカナ地方に、ダンチャッテというなんちゃって小説家がいた。

ダンチャッテは作家を志す道の途中で、とある森に迷い込み、そこで小説の神さまと会った。神さまはおっしゃった。

「ダンチャッテよ、作家にとって大切なみっつのものがわかるか」

「ひとつは、古典を読むことです!」

「よかろう」

「ふたつめは、文体を磨くことです!」

「よかろう」

「みっつめは、……ああ、わかりません!」

「教えてあげよう。みっつめは、俗っぽさだ」

神さまは天に帰りました。

「それなら、おれにもできそうだぞ」

ダンチャッテが大成したのか、それはわかりません。

しょうもない日常


春、頭もかすみがかる朝に
しょうもない日常が始まる

季節の変わり目で身体はざわざわするし
仕事でもちょこちょことトラブルが続き

ほどよく友人からLINEが来てちょっと笑い
話題作でもない映画をひとりで観て

なにをするでもなく終わる日もあるけれど
今年も桜は咲きました。


2019年3月23日土曜日

忘れちゃう悪夢


夜中になんだかべとべとと暑くて、目が覚める、なんてこともある季節の変わり目、3月。

ああ、悪夢を見ていたな、気分わるいな。そういうこともある。

けれど、すべての夢と同様、悪夢もすぐ忘れてしまうのが、ひとのいいところだ。

□ □ □

ぼんやりとみる白昼夢のように、日中の悪夢もそうしてすぐ忘れてしまえたら、それが一番いいね。

2019年3月20日水曜日

妥協しちゃう話


以前、ビジネスの研修でゲームをした。
ふたりで手の内を見せずに交渉する。お互いが譲り合うと、50点・50点くらいをもらえる。しかし、どちらかが強情を張ると、10点・60点くらいしか取れず、合計点としては低くなる。

──Win Winのためにはお互いを信頼して相手の言い値に寄り合う「妥協」が大切、という趣旨。

□ □ □

これはわりと有名なゲームらしいが、妥協といえば、むしろ人間関係を思う。

本音では「それはやめて!」と言いたいけれど、ひとまずは控えめな助言にとどめるケース。

(ぼくとしてはちょっと…)と思いながらも、「うん、いいよ」とOKするケース。

納得するケースもある。(そういう考え方もあるかあ)

妥協はせこい処世術でも、やせ我慢でもなく、自然体につながる気がする。
「ま、いっか!」が言えること。
そういうのは、ほんとうの大人だよ。

──「でも、人生、ぜったい妥協しちゃいけない、って場面もあるだろう?」

それについては、すでに長くなったのでまた今度。
と、終わり方も妥協しちゃう話でした。

2019年3月19日火曜日

幸せはどこにある?──プロセスか結果か


幸せは、プロセスのなかにあるのか、結果にあるのか。

ふつうに、世間や他人をながめるとき、目につくのは結果のほう。たとえば肩書きや年収。

だけど、すべての結果は手に入れてしまえば「それまで」で、そこから先の幸せはまた新しく作らなきゃいけない。

むしろ、常に駆動しつづけているのはプロセスの方である。そのさなかにあって本気になること、あれこれ試したり、喜びや苦労を分かち合ったりすることは持続的な幸せを生む。

じゃあ、結果はどうでもいいのかというと、そうでもない。

結果は次のプロセスへの「パスポート」になってくれる。結果を差し出すから、次の挑戦ができる(社会的に)、という風に……。

□ □ □

ひたすらに歩んでいきたいね、なんにしても。

*『遊戯哲学博物誌』の「幸福について」の章も参照(していただけたらうれしいです)。

2019年3月17日日曜日

郊外の本屋にて


平日の昼間に、郊外型の本屋を訪ねた。小規模チェーンで、面積は中くらい。
意外とひとが滞留しており、レジの方からはいろんな声が聞こえる。

「〜っていう雑誌ありません?」「はい、こちらに」
(電話で)「お取り寄せの本ですが……」

ぜんたいにはおじいちゃんが多い。でも、ファミリーも女性もいる。
若いビジネスマンが、車で立ち寄ったのか、文具を探している。
店員さんはていねいに受け答え。

品揃えはけっしてよくないけれど、地元のひとに愛されている。

□ □ □

ちなみに、リアル本屋さんの重要な点で、いまのところ、指摘されているのを見たことがないのは「学習参考書を選べること」だ。

これは、教育業(家庭教師)で痛感した。

文芸や専門書はネットのレビューを参考にしても選べるが、学習参考書はよくよく中身を検討して、「あの子に合うかな?」と考える。ときには30分くらい棚の前であれこれ手に取り、やっと決まる。

街の本屋さん、がんばれー。ぼくも行くよー。

2019年3月15日金曜日

「オーラ」のあるひと?


ぼくは糸井重里さんの『ボールのようなことば。』シリーズが好きだ。

「ぼくは、オーラ出てる人って、ひとりも会ったことないなぁ。」
(『ふたつめのボールのようなことば。』糸井重里 p.115)

これを読んで、「なるほど、オーラがあるとかないとか、そんな風に印象でひとを分けるもんじゃない、か」と思った。

□ □ □

先日、この話を友人にしたら、思わぬ答えが返ってきた。

「東大生だけが、東大なんてたいしたことない、って言えるじゃないですか。同じように、糸井さんはオーラがあるから、そういう風に言えるんですよ」

そこまでは考えが及びませんでした。

2019年3月12日火曜日

「遊ぶ」がなにかわからなくなったら読むエッセイ


今日、会った友人が「そういえば、十年以上、遊びをしていない気がする」と言う。

「え?」

「遊ぶってなにをすることだっけ?」

『遊戯哲学博物誌』を書いたぼくからすると、水も光も遊び戯れている。

だいじょうぶ、ふだんの彼も楽しそうに見えるから。
きっと十分、遊んでいるよ。笑

2019年3月8日金曜日

願い事、「正しく祈らないと…」


打ち合わせ後の雑談にて。
教授は語る。「日頃、学生に言っているんです。願い事はたいていは叶うよ。でも、正しく祈らないといけないよ、と」

ぼくは素朴に聞き返す。「どういう意味ですか?」

「うん、たとえばイケメンと結婚したい、と願うね。それは叶うんだけど、そのイケメンがDV夫になる、ということがある」

「なるほど…」

□ □ □

20代は放埒なエネルギーにあふれているが、周囲にきちんと目配りできないと、無茶をして、あとでそのツケが回ってくるのか。

だから、「正しく祈ろう」。

──P.S. でも、と考える。ほんとうにそちらへ走りたいのなら、走ってみたら。周りをよーく見渡すスマートな若者にはできないことを、するのはどう?と。

2019年3月3日日曜日

「知っている」のはよいことばかり?

BOOK POWER
「知っている」ということは一種の暴力だな、とふと思う。

おそらく頭のよいひと、知識の豊富なひとほど、そうではなく、知はもの静かな能力だと考えるけれど。

□ □ □

ものをよく「知っている」ひとや図書館の本棚に向かうと、その奥が見通せない霧の手前にいるような心細さを感じないだろうか。

彼方にあるのは、すごくよいものかもしれないが、同時に恐ろしくもないだろうか。

たとえ「知っている」ひとは楽しんでいるだけで、けっして「相手を圧倒しよう」などとは思っていなくても。

それでも、「知っている」ことは抑えの利かない力でありうる。

だからこそ、じぶんが「知っている」側に立ったときには、実は慎み深さが必要なのではないだろうか。

2019年3月2日土曜日

所有された土地、手つかずの空


ネイティブアメリカンは「土地の所有」という観念をもたなかった。土地はみんなのもの、というより、母なる大地だった。

しかし、白人が土地を所有するようになってからは、「狩猟許可証」をもたないと狩りもできなくなった。

□ □ □

現代のぼくらも分割され、所有された土地に暮らしているけれど、空だけは所有できないなあと思った。

空は誰のものでもない。
青い空を赤く塗り替えられるのは太陽だけだ。
札幌に雪が降れば、北海道知事が晴れさせるわけにもいかない。

手つかずの空ははてしなく広がっている。

2019年3月1日金曜日

調子っぱずれ


子供の頃からどこかズレていて、小さな失敗をしょっちゅうする。
なんでこんなところでつまずくかな、と思いながら、
同じところをぐるぐる回る。

学芸会の教室を飾りつける色紙や布切れのように、たくさんの失敗を散りばめて、思い出の壁が一杯になる。

大きな失敗については──もう話したくもない……。

そういったことぜんぶ、だいぶ忘れた頃、けっこう大人になっていた。