2021年2月15日月曜日

誰かとともに生きる──孤立する生命とならずに

 


誰かとともに生きる──ひとがひとりで生きないことについて。



ある時、ぼくは旅をしてゲストハウス(部屋をシェアする二段ベッドの宿)に泊まった。

オープン前から知っているオーナー夫妻には、3人の子供がいる。ぼくは

「子供たちの家庭教師をさせてもらう代わりに、ここに長期滞在させてもらえませんか。宿代はなしで」

と提案した。

オーナーは喜んで「東大生がついているなら心強い。やろう」と言ってくれた。

ところが、意外とうまくいかない。子供は学校から定時には帰宅しない。2人、小学校に通っていたが(1人は小さすぎた)、今日は気分が乗らないといわれることもあった。

次第に、ぼくも外でぶらついて時間を過ごし、帰ってくると3時4時より遅くなることがあった。子供たちは家でべつのなにかをしていた。

そうやって2週間ほどが過ぎ、ぼくは勉強をほとんど教えないまま、居候のようになった。

気まずく、「このままではよくないですね?」と切り出して、夫妻と話し合いになった。

「毎日、決まった時間にいてくれないと困る。今から宿代を請求しようとは思わない。だが、おれたちだって数百万かけて、手作りでこの宿を作ったんだ」

それはそうだった。

ぼくも宿ができる過程は見ていた。ぼくはしょげた。残り2,3日は正規に払い、帰った。幸い、それで別れにはならず、またべつの季節に今度はふつうに泊まりに行った。

***

札幌に住んでいた頃、「本のカフェ」という読書会で、カフェやパン屋(イートインスペースがある)にお世話になった。場所を借りて開催していた。二次会もあった。

よく通うギャラリーもあって、絵を見ては色々な話をした。人生の先輩たちに薫陶を受けた。ずいぶん、ずいぶん可愛がってもらった。


資本主義や社会の仕組みに乗っかっていようと、いまいと(つまり、お支払いを正規に済ませていようと、いまいと)、ぼくは多くのひとに「無償の愛」で支えられて、ここまで来た。

珈琲代を払っても、パンを買っても、場所代を交渉して頭を下げても、ギャラリーで絵を購入しても、そういったことの真下、いわば深い水の流れのなかで、愛を受けて来た。

ぼくが「家庭教師」の時のような、失敗をしても、また社会的にはしなかったように見えても、恩恵を受け、黙って見過ごしてもらい、笑顔で迎えられ、数知れない恥をかきながらここへ来たのだった。

ちかしい関係は、地道で面倒で泥臭い面をいつも持っている。ふんだんに持っている。喜びとわだかまりを合わせたような泥を抱える

たとえ一時であっても、甘えも貸し借りも自然と生じる。親子や夫婦であれば、仕方なしに距離を置かざるをえない時間も生じる。返せない恩もある

そのなかで膝をついて祈るような心を持てるか、どうか。そこが「あなたの土地であり、そこに根ざしてその上に生まれ育ったのだ」と自分に言う。

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「泥」という言い方をしたが、悪い意味ではない。

その泥を、きちんと受けられないひとも世の中には多いように見える。勘違いかもしれないが。泥のない人生は、愛のない人生のようだ。

「泥」や「返せない恩」のもとで生きること、それは幸福なことだ。

人間関係を持つ、とはそういうことだ、と思う。

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『「甘え」の構造』(土居健郎)という本がある。1971年の刊行以来、日本文化論、日本人論、心理学の名著として読み継がれ、批判と修正をくり返してきた。

日本人に特徴的なのは、「甘え」が人間関係の基盤にあることだと著者は言う。親子から始まり、暗黙の了解のうちに「甘える」関係が、上は天皇から下は庶民まで日本を覆っている。「甘え」自体は世界中に普遍としてあるが、「甘え」ということばで明快に言語化され、こんなにも文化に組み込まれた国はめずらしい──と論じる。

ところが、2011年の序文で、著者は奇妙な転換を見る。

「私の本に対する、批判がとんと止んだ。これは「甘え」の論がついに受け入れられた、ということなのだろうか。……ちがうように思う。「甘え」に代表される特異的な二者関係が、途絶えつつあるのではないか」

つまり、日本から、伝統的にあった深い人間関係がなくなったのではないか、と著者は不穏に問う。

それは表面的なコミュニケーションのスムーズさ、スマートなやりとりのうちに、消えてしまったのかもしれなかった。

この「甘え」は、泥をふくむ関係である。「まあ、仕方ない」「大目にみる」「しょうのないひとだ」「わたしが泥をかぶろう」(沈黙)……そういう無意識のうちに、また無言のうちになされていた深い交流が、新しい文化に取って代わられたのだろうか?

***

心の交流が、どのようなやりとりの方式に取って代わられても、たいしたことではない。フォーム(形式)を合わせるだけだ。だが、その変化の波のなかで、心の交流そのものが、不安定にさらされ、消え入りそうになるとしたら?

──今の時代に本当に必要なことは?



人間の持つ、優しさ。

優しさは、プラスαではない。

キャンディーを100個持っている人が、90個配り歩くのは、お互いに楽しくプラスαに近い。けれど、3個のキャンディーを3人で分けるなら、1つしか持てない。

もし、1つのキャンディーを2人で分けるのなら、それを叩いて割らなければならない。大切なキャンディーは粉々になるかもしれない。

さきに話した「泥」も「甘え」も、今の時代の「優しさ」につながっている。じぶんの魂を削り、情熱を持って苦しみを引き受けることが優しさを生む。

人間はひとりでは生きられない。魂を分かち合っているからだ。それでないと、生命は孤立してしまう。

孤立した命は、もはや人間ではない。それは生物種としてのヒトが、「生存」しているだけだ。そういう時期も、おそらく人生にはある。

そこにも、たしかに生命の交流と心のつながりは、なくはないのだが、ひとはもうそれを感じられない、実感できない。その時、孤立が起こる。

優しく生きよ。

と、じぶんに思う。魂を削り、苦しみを味わうとしても。孤立してはならないし、させてもいけない。生命はおたがいさまであり、きっと交流しないことには生命でなく、人間でもありえない。

人間であろうとし、ひとを愛する。そういう生き方ができなければ。


明るく力強く、静かでおおらかななにか。

そういうものになることもできるかと思う。