2013年1月24日木曜日

文化とデジタルをめぐるトレンド[2013年初め]


本と音楽をめぐる状況は、新しい時代へとシフトしているさなか。
電子機器も、タブレットの登場で光景が変わりつつあります。
そんな業界のトレンド(動向、流行)を思いつくままにまとめてみました。

・単行本よりも文庫本が主力商品になる。
背景:いままでは、本屋さんというと単行本を目に付きやすいところに配置していました。とくに、小説の新作は、まず単行本として出され、しばらく経ってから文庫化されていました。それが、「重い」「高い」という単行本離れのムードのなかで、「軽い」「小さい」「安い」文庫本へ、購買がシフトしています。これからの本屋さんは文庫が主力商品になりそう。 
ちなみに、ゼロ年代のトレンドとしては、新書ブームがありました。老舗の新書以外に、いろんな出版社が新書を出したため、いまでは飽和状態の感があります。

・電子書籍ブームはもう少し、火がつくまでに時間がかかりそう。
背景:日本の出版にかかわる制度が、アメリカとは異なるため、Amazonの進出も摩擦が大きいようですし、Appleも日本語版のサービス提供に踏み切っていません。また、日本発の電子書籍(とリーダー)も大差のない出だしで、いずれのサービスにしても電子で買える本の数が少なすぎます……。日本特有の制度(書籍の再版制度ほか)や慣習がはばんでいる部分も大きいのかな、と。そういうわけで、電子書籍ブームに火がつくのは、もう少し先(2,3年はかかる?)でしょう。

・仕事ではノートパソコン、家庭ではタブレットという棲み分けが進む。
背景:デスクトップPCは、売れなくなっています。開発側も、控え気味。20インチを超える巨大なディスプレイくらいしか、売れるポイントがない模様。それは、ゼロ年代のうちに、ノートパソコンが十分に高性能になったからです。そして、そのノートパソコンの市場は、ここ1,2年でタブレットにシェアを奪われている段階です。子供が遊んだり、リビングでネットを見るくらいなら、タブレットの方がすぐれているでしょう。
けれども、ノートパソコンの需要は、一定以下にはならないはずです。タブレットは、家庭では多機能で楽しいけれども、仕事では依然として「パソコン」が必要だからです。そうなると、仕事の主役はノートパソコン、家庭の主役はタブレット、というところに落ち着くのではないでしょうか。

・音楽販売は、ゆっくりと配信がメインになってゆく。
背景:アメリカでは、音楽配信のiTunes Storeが、音楽販売の主力になってきました。ところが、日本ではいまだ配信が主力にならない。それは、1.TSUTAYAやゲオといった低価格レンタルの市場が根強くあるから。2.YouTubeで無料で聴ける音楽だけで十分、という人たちが多いから。(ふたつ目の理由は、日本だけの事情ではありませんが……。)そもそも音楽の聴き方が、これらを主流としているのですね。
これは(電子書籍のときと同じように)構造的な問題なので、転換は時間がかかりそうです。ちなみに、2000年頃から、CD販売も不振が続いていて、こちらの回復は見込めなさそうです。このままでは、音楽業界全体が縮小し、先細りしていく、と思われます。打開策はよくわかりません。LIVEの売り上げは、微増が続いていますので、LIVE文化が業界を下支えするでしょう。
ただし、配信が「販売」の中心になる動きは、ゆっくりと続くと思います。(「聴き方」の中心になるかどうかは、わからず。)レコチョクのスマートフォン向け定額配信(月額980円)も始まりますし、やっと大型の国産サービスですね。iTunes StoreもJ-POPの品揃えを増やしました。今後、おそらく数年かけてCDから配信へ、販売のメインは変わっていくのではないでしょうか。

・オーディオは、ワイヤレスが主流になっていく。
背景:スピーカーやイヤホン、ヘッドホンといったオーディオ機器、そしてプレイヤーの本体までもが、ワイヤレス主流になりつつあります。
ひとつの理由は、Bluetoothと、無線LANを利用した技術の進歩によって、音楽を音源(スマートフォンやパソコン内のデータ)から「飛ばして」、スピーカーやプレイヤーから流すことが容易になったからです。この「聴くスタイル」は、ワイヤレス製品の多様化と低価格化が、確実に後押ししています。
もうひとつの理由は、音源がそもそも、物理的な媒体(CDやDVDなど)でなくなってきていることです。YouTubeであったり、パソコンに取り込んだデータだったりするので、「一度、物理的な媒体を読み込んで」というステップが不要になっています。この傾向が、ワイヤレス環境の構築にとって、追い風になります。


ほかにも、思いつきそうですが、長さもきりが良いので、今回はこのあたりで終わりたいと思います。

2013.1.24.

2013年1月23日水曜日

【書評】開沼博『フクシマの正義』を読んで


はじめに ーー開沼博さんのご紹介

 福島でいま、なにが起こっているのか。関心をもつひとに、信頼できる研究者が語る。開沼博(1984〜)さんは、若手の社会学者で、福島県いわき市に生まれ、震災よりも以前から、すでに地元福島の原発問題について研究をしてきた。それが、3.11で脚光を浴びる形となり、修士論文をもとに『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011)を出版した。そして、震災後もフィールドワークをしながら、問題を追い続けている。

 ここでは、彼の第二の著作『フクシマの正義「日本の変わらなさとの闘い」』(幻冬舎、2012)について、書評を記したいと思う。

開沼さんのスタンス

 はじめに、開沼さんのスタンスがユニークだ。彼は、「田舎、地方としての福島」に着目して、原発・震災の問題に関しても、福島の歴史的な変遷、地方独特の背景を重視する。その点、いま、世の中で取りざたされやすいテーマ、「放射能は(首都圏などでも)どのくらい危険か」「原発利権がどのように政官財報を癒着させているか」「東電の責任追及」といったテーマは、中心に据えられていない。まさに、二つの著書がタイトルに含む「フクシマ」という言葉が、彼の問題意識を貫いている。この本は、「原発論」よりも「地方論」に軸足を置いているのではないか、と思わされる箇所が多い。あくまで「福島」を中心に視座や論点を提供していく、それが開沼さんのスタンスの独自性である。

「フクシマ」を語る知識人に抗して

 第一部では、現在の日本の「知識人」に対する不満が述べられる。彼らは、現地に行かないで、「なぜ(福島から)避難しないひとたちがいるのか」とか「東電が悪い。なぜ(福島は)受け入れたのか」といった話をするが、それは、他人から見た福島にすぎない。実情をおさえていない。それでは、(カタカナとしての)「フクシマ」という世界規模の問題としてしか、震災も原発も捉えられておらず、現地の声や生活に密着した「福島」が抜け落ちてしまう。そのなかで語られる「正義」は、肝心の福島のひとびとに届かない。それゆえ、福島のフィールドワークから、現場尊重の意志から、発する働きかけが重要になってくる。研究も、「知識人」としての発言も、そうあってしかるべきだろうと、開沼さんは考える。

メディアとのギャップ、そして、原発を受け入れた町の歴史

 第二部では、具体的に福島の現状が述べられる。著者自身が福島に何度も足を運んで見聞きした情報、そして、1950年代まで遡って戦後史として福島という地方を眺めるなかで、気づいたことを記していく。第二部も、論文調ではなく、いろいろな話題を盛り込んで、小見出しごとに話を切り替えていく文章になっており、読みやすい。

たとえば、こんな話がされる。「なぜ現地に行くと違和感を覚えるのか」という小見出し。

それは「メディアで描かれるほど、現地の人々は怒ったり悲しんだり怯えたりしているわけではない」というギャップである。
 例えば、メディアを通して福島を見ると、「線量が高い」「避難したほうがよい」といった専門家による分析、政府や東京電力に対して声を荒らげる人々の姿が繰り返し報じられた。しかし、線量が高いと言われる福島市の駅前に行ってみても、地元の人でマスクや放射線を避けるような格好をした人はほとんど見当たらない。スーパーでも地元産の作物が普段どおりに置いてある。(p.160)

ここでは、メディアとフィールドワークの落差が指摘される。では、メディアが「嘘」を報じていて、福島の人々は放射能など恐れていないのだろうか?そうかんたんではない。
 「いわき市に住むある人」は、「今、ここには見えない対立があるんです。」と語る。福島のなかにも、「地元の作物を食べて、安全を信じ、アピールしよう。」というひとたちと、「正常ではない数値も出ているし、慎重にしよう。」というひとたちと、二つの立場がある。けれども、「復興、頑張ろう。」という声の前には、多くのひとは慎重論を唱えられなくなってしまう。マスクをつけないのも同じ原理で、「自分だけマスクをつけていると浮いてしまう。」ことから、ボランティアも含め、マスクをしなくなるのだとか。マスクは、「(マスクをしない)あなたがたは、危険を冒しています。ここ(福島)は危険な場所です。」というメッセージを発してしまうから、ひとびとの間に溝を作ってしまう、それが怖いがために、つけられないのだという。(p.161)

このように、福島のなかに「分断」や「溝」ができてしまう危険性が、常にある。

 開沼さんは、震災前からの「福島・原発」研究者であり、その歴史についても本書で触れている。60年代の原発予定地について、こんな風に語られる。

「町史」をはじめ地元の資料を繙く(ひもとく)と、当時の風景が紙芝居のように見えてくる。テレビをつければ『ひょっこりひょうたん島』が流れ、ラジオや新聞では東京オリンピックに向かう東京の輝かしい高度成長の様子が報じられた。しかし、メディアを通した「高度成長の物語」を見終えて、ふと自分の家の外を見ると、いまだアスファルト舗装されていない道路に茅葺き屋根の家。電気や水道、電話などのインフラが通り始めたばかりで、少し街の中心から離れると、まだそれすらもない。(p.157)

田畑に使える土地も足りないし、男たちは出稼ぎに行かねばならない、貧しい農村。そこに「夢のエネルギー原子力」が差し出された。原子力に対して、いまのような「大事故」「放射能」といった負のイメージが広く定着するのは70年代に入ってから、と開沼さんは言う。50〜60年代前半の田舎町にとって、原発予定地の提案は、いまの言葉で言えば、「この過疎・高齢化の地が、IT特区になってシリコンバレーみたいになるかもしれない」(p.157)という以上に夢のあることだったのではないか、と開沼さんは想像する。

 ほかにも、この第二部では、津波の遺体をめぐる痛ましい話など、現地で取材に当たったひとならではのエピソードや考察が語られている。

開沼さんと愉快な対談者たち

 第三部は、開沼さんと誰かもうひとりによる対談集になっている。ここは、著者の本音が聞けたり、方法論について言及されていたり、生の声が面白い。そして、なんといっても、対談する相手がどの方もユニークだ。まず、開沼さんと同じ世代の若手がそろっている。批評家・編集者である荻上チキさん、『困ってるひと』で一躍有名になった大野更紗さん、若者論で評判を取った社会学者の古市憲寿さん。また、もっと上の世代で言えば、話題を呼ぶジャーナリスト・ノンフィクション作家の佐野眞一さん、小説家の高橋源一郎さん、政治家でニセコ町出身の逢坂誠二さんらがいる。

では、第三部をかいつまんで見ていこう。開沼さんは語る。

ライターとしての視点から言えば、ジャーナリズム、ノンフィクションの現場に若い書き手が出てこない状況が長く続いていて、……(中略)……自分の足を使わないで、傷のつかないポジションを獲得して上から物を言うような知識人が跋扈(ばっこ)している状況が、問題をかえってややこしくしている部分がある(p.253)

ここには、若い世代の「ジャーナリズム、ノンフィクション」を背負おうとする開沼さんの気概が表れているとともに、現状への不満も聞かれる。

3.11直後から様々な形で知識人たちの言説のあり方が問題になってきましたが、地元の人と知識人たちの言説のギャップにこそ注目しなければならない。既存の議論は「地方を中央の実験場にする構造」の再生産に向かってしまっている。そのことはすごく感じますね。(p.355)

この点は、最初に指摘した、開沼さんが「地方論」を意識していることにもつながる。

一方で、"田舎論"をやりたいとも思っていました。東京育ち、都会育ちの研究者にはできなくて、地方出身の自分にこそ見えるものがあるだろうと。(p.250)
先ほど、七〇年代、八〇年代の若者論は中央の論理で動いていたというお話がありました。地方論に関しても、様々な領域の先行研究を見ると、同じように感じます。(p.362)

こうして、「中央(とりわけ、東京。)と地方」が大きく対比されて、中央の論壇からは見えない地方を描きたい、という開沼さんの意気込みが窺える。

おわりにーー若手の社会学者、批評家への期待

 このレビューでは、書評でよく使われる「著者」という言葉を控えめに用いた。積極的に「開沼さん」と名前で呼んだ。それは、彼が「これから」のひとであり、その信頼ある文章ばかりでなく、その名前ももっと親しまれてほしい、と願うからだ。そして、「これから」社会を論じていく気鋭のもの書きは、彼一人ではない。
 たとえば、webのメディア「SYNODOS(シノドス)」で盛んに議論する、若手の社会学者、批評家たちが何人もいる。第三部の対談に登場したような方々がそうだ。学問も、社会評論も、ひとりでは心細いところ、切り開けないところもあるだろうから、いま若い世代に何人も期待できる書き手がいることは、心強くもある。開沼さんには、周りの「仲間たち」とともに、これからも新しい風を吹かせてほしい、と思う。

2013年1月11日金曜日

DVDリッピングの違法化について、解説とその後


昨年、話題になった「DVDのリッピング違法化」について、かんたんな解説を試みるとともに、その後のDVDの売れ行きが発表されたので、追ってみよう。

<DVDのリッピング違法化とは>

2012年10月1日から、改正著作権法の一部施行により、「DVDのリッピング」が違法化された。「リッピング」とは、DVDやCDのデータをパソコンに「取り込む」行為を指す。これが、違法化されて話題を呼んだ。その結果、次に挙げること、すべてが違法となった。

・レンタルしたDVDの複製を作る(いわゆる「空のDVDに焼く」)こと。
・購入したDVDの複製を作って、バックアップをとること。
・購入したDVDを(パソコン経由で)スマートフォンやタブレット(iPhoneやiPadなど)に取り込んで、視聴すること。

ここで、ぼくは「あれ?」と思ったのだが、禁止されたのは「レンタル」(TSUTAYAやゲオなど……)したDVDを「取り込む」ことだけでなく、「自分で購入した」DVDを「取り込む」ことも、である。いままでなら、「私的複製」は、違法でなかった。私的な範囲なら許されていたのだ。まして、自分で購入したDVDを自分のiPadで見ることすらいけない、と言われると、なにか常識にそぐわない感じがする。

<CDのリッピングはOK>

実際、CDは、いまだに私的複製が許可されていて、レンタル店で借りてきたCDを「リッピング」してパソコンで聴いても、空のCDに焼いても、違法ではない。

どうして、DVDだけがこのような厳しい取り扱いになったのか、なぜCDはよいのか、常識的には、理解しがたい。実は、今回、著作権法を改正した文科省の議論では、技術的な観点ばかりが問題になったようである。そのため、ぼくらが実際に営んでいる音楽・映像ライフとはかけ離れた、実態とは乖離した立法になった、と言って良さそうだ。

<法制化の背景——「CSS」についての技術的な議論>

違法化の論拠について、こちらに参考記事がある。


この記事によると、

改正著作権法の一部が、10月1日に施行された。今回の改正では違法ダウンロード行為に対する罰則(違法ダウンロード刑罰化)が加えられたほか、DVDに用いられる「CSS」などの暗号型技術を回避して行う複製が違法(DVDリッピング規制)となった。

ということだ。

ここで登場する「CSS」は、(詳しくは、ぼくもよくわからないのだが)コピーガード機能ではなく、アクセスコントロールと呼ばれる機能で、そもそもは複製防止のために組み込まれているのではないようだ。そして、この「CSS」は、市販のDVDには含まれており、市販のCDにはほとんど含まれていないらしい。そして、CSSの有無にかかわらず、パソコンでのリッピングはかんたんにできるのが現状である。しかし、法制化に当たっては、「CSS」を回避してリッピングすることを「違法」とするか、「適法」とするかが論点になり、結局、違法となった。こうして、主として技術的な観点から「CSS」について議論した結果、「購入したDVDすら取り込めず」、「レンタルしたCDは取り込んでよい」、というユーザーにとっては、奇妙な結果になったようだ。

<その結果、DVDの売れ行きは……>

当初から、DVDのリッピング禁止には、音楽・映像産業を萎縮させるのではないか、という危惧が抱かれていた。つまり、「リッピングができないのなら、買おうとは思わない。」という風に消費者のDVD離れが進むのではないか、ということだ。

それで、実際にどうなったか。こちらに、2012年1月〜11月のDVD(およびブルーレイ)の売り上げの一覧がある。


この表によると、2012年の11月のDVD販売金額は、前年同月比85.8%(市販) 、78.1%(レンタル用)となっており、DVD全体では82.6%となっている。11月の結果は、統計の出ていない12月を除くと、1月に次いで低い値となっている。10月の売れ行きは、前年並みなので、一概には言えないが、「リッピングの違法化」によって、DVDの購買意欲は低下しているのかもしれない。

ともあれ、2012年10月1日の施行から、ふた月分の結果しか出ていないし、具体的にどの行為が違法化されたのか、まだ徐々に周知されている段階だろうから、これから先を見守っていかないと、はっきりした結論は出せない。

<おわりに——そして、今後のこと>

まず、ユーザーの視点から言えば、レンタルしたDVDをコピーできなくなるばかりか、購入したDVDすら取り込めないのは、かなり苦しい。映像をモバイル端末で持ち運べない。また、DVD販売・レンタル店にとっても、先行きも暗いだろう。さらに、長期的に見れば、法律が「守ろう」としている著作権者にとっても、コンテンツが売れなくなって不利益になるという結果をもたらすかもしれない。

そして、今後のこと。——映像の「配信」については、リッピングは問題にならない。直接、データが端末に供給されるからだ。今後は、音楽・映像業界は、パッケージ(CDやDVD)を店舗で販売する形態を取らず、コンテンツ(音楽や映像)そのものを配信する方向を取るようになるのではないだろうか。