2019年6月11日火曜日

【俳句】五月、六月──俳号は「季白」

今回は、俳句のはなし。


俳句を始めて10年近く。これまで本名を使ってきたが、思い立って俳号をつけた。

円山季白(まるやま きはく)とした。

「円山」は札幌にある小さな山の名。ゆかりの地。

「季白」は、白い季節。雪や冬、北海道を思って。
じつは唐の大詩人、李白(りはく)にもあやかったつもりだが、字面も似てゆきすぎかもしれない。(芭蕉の弟子「其角」(きかく)らしい響きもよし)。

さて、気魄ある作句を心がけて。

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今年、初夏から梅雨にかけて詠んだ句。
いま、破調(五・七・五で切れない)に挑戦している。

せせらぎはよぎる夏の蝶の羽音

小川のほとり。

仄白い紫陽花咲き額のない絵

ほのじろい、まだ咲き始め。


みほとけの諸手に包んだ紫陽花

もろて。両手。

待つ者の顔はつね静か梅雨入り

つね。常、いつも。

ひなげしの赤降る頃や西の空

小さなひなげしは儚く風に揺れ、その朱色は夕空に似る。

青さ灰を知る空や梅の実生る

これは複雑すぎる。青灰色の空の下、梅の実が色づく。

どくだみやカラス少年を乗せけり

「夏風やカラスは少年を乗せて」のほうが爽やか、か。

蚊をつぶしてしまうわるいことしたな

つい。

六月の二日暦をめくりけり

一日遅れ。

アーケードなす葉桜のひと昔

句意は、ぼくにもよくわからない。緑のトンネル。

空から無音降り注ぐ夏の夜

流れ星のように静寂が降る。

ひとすじの雲ゆけば七月の水

「行雲流水」の心地を詠んだ。「七月」は気が早い。

くずれてひかり残してや月見草

月見草は夜に開く。明け方、しぼんでかたちのつぶれた花も、まだ光を宿していた。

季白

2019年6月5日水曜日

【日常】蜘蛛太のはなし


去年から、蜘蛛を飼っている、わけではないが、部屋に出るのをただ眺めている。

去年の夏頃だったか、蜘蛛太(くもた)が来た。
ぼくの部屋は和室なので、小さな蜘蛛はちょっとした風情がある。

「殺す」なんてとんでもないし、窓の外へ出すのも手間だから、ほうっておいた。すると、毎日のように机のまわりに出てくる。

そのうち、「蜘蛛太(くもた)」と名前をつけた。

□ □ □

冬のあいだ、蜘蛛太は姿をくらました。
春になると、蜘蛛の子が何匹も出た。

「くもたろう」
「くものすけ」

そのうち、名前のストックが尽きて、すべて名無しになった。
アガサ・クリスティではないが、「そして、みないなくなった」(蜘蛛の子だけに「散った」)。

いま、机のうえにそれほど小さくはない蜘蛛が一匹いるので、それを新しい「蜘蛛太」と名づけた。

今年もよろしく。

(ただし、区別はつかない)。

□ □ □

* 哲学者のスピノザは、部屋の隅で、蜘蛛を戦わせて楽しんでいたらしい。だけど、どうやったら「戦う」のか、ぼくは見たことがない。

2019年6月3日月曜日

【思想】バイオフィリア(生命愛)


緑に触れると心が安らぐ。
『Nature Fix』という本によると、健康にもなるそうだ。

□ □ □

以下、その本からの孫引きで申し訳ないが……

バイオフィリア(生命愛)とは、エーリヒ・フロムの造語で1974年に提唱された。

「生命とすべての生きているものに対する情熱的な愛である。それは人間であれ、植物であれ、思想であれ、あるいは社会集団であれ、その成長を促進しようとする願望である。」

その後、どこかのウィルソンさんが

「人間が他の生きた有機体と情緒の面で生まれつき密接な関係を持っていること」

とバイオフィリアを再定義したらしい。

□ □ □

フロムは、『愛するということ』(原題:The Art of Loving)がいま大人気で、あとは『自由からの逃走』も有名な社会分析だろう。

ぼくはフロムは何度読んでもピンとこない。けれど、さほど難解なことは言わないので、「よいひとすぎて(ヒューマニストすぎて)気が合わないかも」と思っている。

ともあれ、バイオフィリアという言葉は素敵じゃないだろうか。

□ □ □

ちなみに、アイスランドの歌姫ビョークも「バイオフィリア」というアルバムを出していたっけ。

──「あらゆる色相の緑はぼくを元気にしてくれる」と思う五、六月です。

トトロっぽい森

2019年6月2日日曜日

ディスられた話(?)

「褒められた話(?)」につづいて、ディスられた話。

大きめのひなげし

初対面の女性と会って15分足らずで

「木村さんは世の中の八割……いえ、九割二分のひとは苦手!ってくらいATフィールド(心のバリア)強いんじゃないですか!?」

と言い放たれた。

つまり、世間的なつきあいがほとんどできない、ってことじゃないか。

* ちなみに、「ATフィールド」はアニメ「エヴァンゲリオン」の用語。

どうかな?

ぼくは基本的にひとが好きだよ。

□ □ □

さて、上のエピソードをTwitterでつぶやいたら、つきあいの長い友人からリプライが来た。

「わたしからすれば、木村氏のATフィールドはゼロなのですよ、本当に。」

誰に対しても心を開けるひと、ということだね! ありがとう。

……でも、それって真っ裸みたいなものじゃないか? それはそれでよいのか?

□ □ □

おふたり、それぞれ鋭い直感をお持ちのようです。
どっちなのか、じぶんではわからない。

* ぼくはおふたりとも好きですよ。念のため!

褒められた話(?)

去年、知り合った女性の友人とタリーズでお茶をする。

写真はてきとう

彼女はぼくのことを買ってくれるのだが、褒め方がユニーク。

「木村さん、じぶんでは気づいてないでしょうけど、アウトローたちのカリスマですよ」

そんなこと、考えたこともなかった。

「木村さんはこれまでに失ってきたもの、犠牲にしてきたものがきっと多いから、ごじぶんのエッセンスや核が残っているんですよ、いま」

そうかもしれない。ぼくは『遊戯哲学博物誌』(哲学書)の完成のために20代をすべて賭けたようなものだ。

「『遊戯哲学』は変人たちのバイブルですよ!」(力説)

これには声を出して笑ってしまった。

今日は、貴重なお時間をありがとうございました。