2015年1月29日木曜日

感謝




長い病気(自律神経失調)と向き合う人生に入って、もう10年以上になる。厳しい日々だった、と、ひとことで言えばそれに尽きる。そんななかで、いまも途上にすぎないが、感謝のことばを書きたい、と思いつく。

いつも浮かぶのは友人たちだ。ぼくはあるときまで(25,6歳頃だった)ひとりで哲学に没頭してきた。友達がいないわけではなかったが、それをありがたいこととも、とくべつなこととも思わなかった。だが、ふとした転機から、友人を大切なもの、と思うようになってしばらく経つ。そのあいだに知り合った、また以前から交友を続けてくれた友人たちには、いまとても感謝している。

旧友と呼べる仲間もいるし、それなりの期間をだいじに過ごした友人もいれば、ここ1,2年で親しくなっていっしょにいろいろな体験を楽しんだひともいる。年長者もいらっしゃるし、「友達」というよりお世話になった方もいる。本のカフェ(という読書会)で1,2回会っただけの仲間も大切な存在と思える。

もっとも、一番の感謝はやはり家族に、と思う。家族は、つきあいたいときにつきあう気楽な交友関係とはちがうものだから、ひとことでまとめきれない時間をともにすることになる。一番の「ありがとう」はそんな家族のものだ。じゃあ、二番目なのか、と言われるとことばに困るが、それでもここに書きたいのは、友達がいることがどれだけ貴重か、ということ。

ぼくは、あるとき、ひとりで札幌に移住したから、自律神経の発作や不調に苦しむとき、そばにひとがいてくれることは少ない。食事も満足に作れない、歩くにも支えがいる、心細さもある、そういうときもひとりで自分の面倒をみた。けれども、それでも薄い光のなかに溶け入って、いまにも見えなくなりそうな思い出たちが、ひとつひとつを思い出さなくても、ぼくの周りを幾重にも取り囲んで包み込んでいる。

いつ、どの日にちだったかも覚えていないような、淡い歳月のなかで、たまに珈琲を飲んだり、飲み会の席でいっしょになった、なにを話したかも覚えていないような、そういう友人たちとの数え切れない、なにも固定されて写真立てのようには残さなかった日々の記憶が、いまの支えとなっている。これを書く源になっている。これのほかのあらゆるぼくの文章も。



【エッセイ】塵のかなたに


書物を校正するのは塵を払うがごとしだ、ということわざがある。また、「推敲」という熟語は、ふたつの似た文字のどちらを選ぶか、迷いに迷ったという故事に基づく。こんな風にも言う。凡庸な書き手はひとつの文をどうするか悩むが、非凡な書き手は一文字に窮するのだ、と。

どれも大意は同じで、文章の一文字一文字にこだわる、という話である。

ぼくはそうだろうか、とふと思った。俳句のような文芸ならばともかく、それにしても、長い大きな文章を書くときに、むしろ一字一字にこだわらないことのよさを考える。

いま思い浮かべているのは、ホメロスの叙事詩やニーベルンゲンの歌、または源氏物語のような古典作品である。それらは翻訳され、一部が抜け落ち、または現代語訳されても命脈を保っている。大いなる作品であることを失わない。たとえ、翻訳で文の意味がずれてしまおうと、ことばのニュアンスが抜け落ちようと、どこかがすり切れるとしても、まとまった文章としては、生きている。

それはなぜか。そこには、歌があるからだ。校正で払う塵のかなたに、大きなまとまった文章を貫いて滔々と流れる、文章よりも長く大きな歌が、目に見えないけれど、あるからだ、と考える。

2015年1月28日水曜日

雨と木曜日(32)

2015.1.29.


最近、フレンチトーストを作るのが好きだ。ときどき、なにかの料理にはまってしまうが、いまはフレンチトースト。やわらかいサンドイッチ用の食パンから、フランスパンまで、あれこれ素材を変えてみる。「ホテルオークラの」レシピも試してみたいと思い、10時間、卵たっぷり牛乳につけこんでもみた。そんなこんなで自家製フレンチトーストも美味しくなってきたが、たぶんもうひと工夫足りない…。バターが決め手だろうか?

***

苫小牧港に輸入されたブラジル。札幌の早川コーヒーで、そんな「ブラジル」の豆を買ってみたが、これがとても美味しい。ブラジルらしい酸味の利いた豆だが、さわやかなコクもしっかりと感じさせる。バランスが良い。もしかしたら、苫小牧港から来る豆は鮮度も高いのだろうか。また、値段の方も100gで300円とびっくりする安さ。さすが卸を扱っている早川コーヒーさんの価格だと思いました。おうちカフェを楽しめる。

***

『整体から見る気と身体』という本をいただいた。おもしろくってびっくり。胸椎何番、といった表記も出てくるものの、身体構造よりも、整体師としての「身体感覚」から発する言葉が、ぼくの実体験とも重なり、うなずく。整体を会話のようなコミュニケーションとして「気」の側面から捉えているので、そこは好みが分かれるかもしれないが、なにより読んでいて楽しい。よしもとばななさんが賛辞を寄せているのもよくわかる。


書誌情報
『整体から見る気と身体』、片山洋次郎、ちくま文庫、2006

2015年1月27日火曜日

【俳文】札幌便り(27)



東京の年の瀬から、今回の札幌便りは始まる。出版社との打ち合わせなど控えていたが、うまくゆかず。あれこれと困難の重なる。

いくつかの悲しみ深し十二月

気づけば、12月30日の夕空。

かばかりに夕陽まぶしき小晦日(こつごもり)

31日は池袋の炊き出しにゆくも、時間が合わずにこれまたうまくゆかない。体調をすこし崩して家路につく。

半月の落ちゆくほどに除夜の鐘

上弦の月が落ちるほど除夜の鐘は深まる。

正月はふつうのひとになりたしや

いろいろと変わった人生の半ば、半ばにも足らず。たまには「ふつうのひと」を願うも俳諧のおかしみであってほしい。

ゆく凧に下げられている子供かな

いかにも可愛く、「アナと雪の女王」の柄の凧を(親御さんに)揚げさせられているが、ぼんやりと立ってしまう。

鳩一羽一羽きりにて枯野ゆく

土の上を歩いてゆく。

おじいちゃんひとり坂ゆく初詣

自分の祖父を思えば、ひとり坂をのぼるも、背中に悲しさ背負いしかと感じ入る。そのあたり、近所の道をゆけば、子供のいたずら書きも見つかる。

元日の朝にチョークでたちつてと

この「たちつてと」は、夜まで残っているだろう。家の前の川はいつも通り穏やかに流れている。

川よりもゆっくり歩け冬の月

そして、また枯れ木のうえに見上げる月は。

枯枝にかかりて青の月まどか

どうして東京の空は冬にこうも青いのか。翌日、川には青緑の小鳥を見つける。

着膨れてしゅっと翡翠(かわせみ)見かけたり

しゅっと飛ぶ様は寒くないのだろうか、翡翠は涼しい笑顔。

ヒヨドリを置いて立ち去る川原かな

川原の枝に止まったヒヨドリとふたり、佇んでいたが、僕がさきに立ち去った。ほんの2メートルほどの距離であった。

霜の上立てるゆかしさ東京や

東京を喜ぶ。霜の上に立つ、というのは北海道では難しい。すぐ雪に埋もれてしまうからだ。そんな札幌へ帰って来た。

ソーサーに砂糖こぼれて雪化粧

もちろん、と言うべきか、コーヒーカップの乗ったソーサーである。茶器にもこだわってしまう。

オレンジの灯やさし雪あかり

札幌の一月もこれまた好きだ。


2015年1月25日日曜日

【ご案内】本のカフェ第14回@札幌、モンクール

*ただいま、11名のお申込をいただいております。*
紹介される本も更新しています。(下記)


本のカフェ第14回のご案内です。今回は、また札幌での開催です。ふつうの本のカフェです。とくに「特集」や「テーマ」は設けておりません。

場所:詩とパンと珈琲 モンクール(西18丁目駅、徒歩5分。)
日時:2015年2月14日(土)18:00〜21:00(17:30頃から受付開始)
定員:12名
参加費:1200円(珈琲、紅茶・パン付き)

前回モンクール開催の写真

〜本のカフェとは〜

本のカフェは、好きな本の紹介を通して、集まったひとがゆるやかに交流するイベントです。

内容:本の紹介者が3,4人、ほかはオブザーバー(紹介せず、聞くひと)。司会・進行は木村が担当します。前半90分は、

・ご案内トーク(5分ほど。木村)
・自己紹介タイム(約15分。)
・ひとり15分ほどで本の紹介。

後半90分は、フリートークタイム、自由な交流の時間です。

参加者:紹介者は、紹介する本の現物をなるべく持参。レジュメは必要なし。オブザーバーはなにもいりません。
 メンバーは流動的で、初参加の方もよくいらっしゃいます。気兼ねなくお越しください♪

モンクールにて
本の選び方:紹介していただく本は、どんな本でも結構です。古典、流行りの小説、学術書、新書、雑誌、ムック本、画集など。
  
大切なこと:ゆるやかな雰囲気を大切にしたいと思っています。紹介も、思い入れ、感想、あらすじなど、好きなスタイルで楽しく語っていただければ幸いです。

主宰:木村洋平
主宰者

お申込・お問い合わせ先

お名前と、「紹介者」か「オブザーバー(聴く人)」を選んでお知らせください。紹介はかんたんな、気楽なもので結構です。初めての方の紹介もお待ちしております。

メール:kimura-youhei◆live.jp (◆→@)
Twitter:@ginnyushijin
Facebookページ:「本のカフェ」で検索。(または、直接こちらへ。)

*その他*
・メールの際は、毎回、最後に署名かフルネームをお入れください。とくに携帯の方から無記名のメールをいただきますが、すべてのアドレスを登録はしていないので、どなたかわからなくなります。

・紹介される本は、決まり次第ここに載せてゆきます。いま3冊。

三島由紀夫の作品。(未定)
角田光代『彼女のこんだて帳』より「かぼちゃの中の金色の時間」(朗読あり)
大村あつし『エブリ リトル シング クワガタと少年』

* 苫小牧の朗読サークルの方々が、1冊、朗読を披露してくださる予定です。

・お問い合わせは、モンクールさんにはおこなわず、主宰の木村へご連絡くださるようお願いします。

・毎回レポートを作成し、そのために写真を撮りますが、撮影についてはおひとりおひとりに許可をお取りしています。

2015年1月22日木曜日

【ご報告】本のカフェ第13回@東京、恵比寿

日時:2015.1.11.(日)14-17時
場所:恵比寿のカフェ カルフールにて。
参加者:12名+主宰
参加費:1000円+ワンドリンク


今回は、第1回以来の東京開催となりました。恵比寿のカフェ、カルフールの落ち着いた雰囲気の部屋を借りました。コーヒーや紅茶、ハーブティーを飲みながら、歓談しつつ、始まります。途中参加の方も3名ほどいらっしゃり、ぜんぶで12名となりました。

僕(主宰の木村)の案内トークのあと、みなさんの自己紹介。お題は、「本の読み方」。積ん読する、寝転がって読む、そのまま「寝落ち」する、映画の原作を読む、電車のなかで隙間時間に読む、古典を読みながらTwitterする、などなどユニークな読み方がいろいろと出てきました!


その後、「本の紹介タイム」では4冊の本が紹介されました。その部分のレポートは、今回、初めてひとにまかせて書いていただきました。それが以下です。また、本の紹介タイムのみ、Ustreamで中継しました。参加者のおひとりが機材を用意してくださり、大変お世話になりました。30人近く、視聴してくださったようです。ありがとうございました。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


1冊目『ブルネイでバドミントンばかりしていたら、なぜか王様と知り合いになった』。外務省勤務の外交官が赴任したブルネイでの生活を描くノンフィクションエッセイ。豊かな国ブルネイ。それだけに外交交渉がうまくいかない。現地のひとびととの繋がりのきっかけとなったのはバドミントンだった。著者の視点で読むのも面白い一方で、著者の家族の視点で読むとまた違ったものが見えてくるというのは紹介者さんの談。


2冊目はケストナーの『飛ぶ教室』。ドイツのギムナジウムを舞台に、子供たちの成長を描く物語。魅力的な登場人物たちとそのエピソードについて話していただきました。話は広がり、ケストナー自身のことや紹介者さんとこの本との出会いの話も。また、今回、紹介された訳は新訳ということで、その訳の特徴についても触れられました。オノマトペが使われ、弾むようなリズムを感じる訳なのだそう。


3冊目は希望に関する言葉を集めた名言集『Words on Hope』。小さなメモ帳くらいの大きさのかわいい本。挿絵として絵画も載せられている。なんでも紹介者さんがイギリスに行ったときに買った本なのだとか。いくつかお気に入りの言葉を紹介してもらいました。「〔…〕Today is the gift. 今日は贈り物である。なぜなら、現在はpresentだから」という話が印象的。


4冊目は『ゼラニウムの庭』。もし僕たちのなかにひとりだけ時間の流れ方が遅いひとがいたとしたら…というお話。歪な時間を抱え生きる登場人物とその周囲のひとびととの関係を通して、読者の抱える時間が照らし出される。「普通に生きて、普通に死ぬ幸せ」という言葉に楔を打たれたと語る紹介者さんは、“時間”について、経験を共有する幸せについて考えたという。

* * *

本で繋がり、弾むような会話のなか共有された経験は、贈り物のように感じる時間でした。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


以上、オルフェウスさん(@orpheus00)にご報告いただきました。当日のメモ取りから書き起こしまでおまかせしてしまいました。僕は一文字も手を加えていません。丁寧にすばらしい文章にまとめていただき、ほんとうにありがとうございます。


後半のフリータイムでは、ブルネイがどんな国か(石油で潤い、税金がないとか?)、ボルネオとどうちがうのか、といった話題。それに、図書館・図書室の運営の話。俳句誌の紹介、キャリアと契約しないMNVOの最新スマートフォンの話など。


あちこちで数人ずつグループになっていろいろな話題で盛り上がったようです。カルフールの店員の方々にもお世話になりました。その後は、恵比寿の駅ビルのレストランで二次会を開き、10名ほどでおしゃべりしました。今回も、本のカフェを見守ってくださったみなさま、ご参加くださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

主宰 木村洋平
文責 木村洋平、オルフェウス
写真 木村洋平(参加者の方々には、掲載許可を取っています。)

* 3冊目の紹介者、みかりさんが、今回の本のカフェをご自身のブログにレポートしてくれました!こちらです。併せてどうぞ。

ちなみに、みかりさんは「コトオン」の屋号で、ことばとおんがくについて幅広い活動をされています。とくに古楽に興味のある方はぜひ。

雨と木曜日(31)

2015.1.22.


1月の札幌へ戻ってきた。東京とは装備をすこし変えるが、レッグウォーマーが力強い味方。膝から下、くるぶしまで包み込むだけで足の裏まで温かくなる。ふんわりしたやわらかい生地のものも使ってみたが、歩いているうちにずり落ちてしまう。無印良品だったと思うが、ゴムが効いていて、しっかりフィットするものを重宝している。脚への適度なしめつけもよく、脚が刺激されて血流がよくなる気もする。ちなみに、家の中でも温かい。

***

Cafe Esquisse(カフェ・エスキス)はお気に入りの喫茶店だ。札幌の円山にある、入口はちょっと小路を入ったところ。マスター夫妻の人柄もあって、ここのカウンター席で飲み物を味わうときほど落ち着く時間は、ほかではちょっと見出せない。珈琲はフレンチを選んだが、ネルドリップで丁寧に落としてくれる。ふと、冬は濃い珈琲がいいな、と思う。そう思うひとが多いから、冬は深煎りの珈琲があちこちで出回るのかな。


Cafe Esquisse:http://cafe-esquisse.net/

***

『人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「6次元」の発想とは』という本を読んだ。タイトルが長い。2008年にオープンした東京、荻窪の喫茶店「6次元」のマスターが伝授する、ひとをつなぐ場所の作り方。テレビ業界の出身だけあって、売り込み方のうまさにはリアリティを感じる。やたらと多いのが、「雰囲気のある」(けれど内容は希薄な)言葉遊びのような「発想」だが、ことばがひとを惹きつける良い例なのかもしれない。


書誌情報
『人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「6次元」の発想とは』、ナカムラクニオ、阪急コミュニケーションズ、2013

2015年1月20日火曜日

作品を作るときに大切なこと

作品を制作するときに大切なことは、できるかぎり「オリジナリティ」を削ぎ落とすことだ、つけ加えるのではなく、と考える。

なくて七癖、ということわざがあるように、どんなに削ぎ落としても自然と「癖」のような痕跡が残る。それがかろうじて「オリジナリティ」だと外からはみなされる、のではないか。

だからもし、自分からオリジナリティを積極的に生み出そうとする状況になったら、立ち止まった方がよいのかもしれない。

そして、話が飛躍するようだが、「人柄」もそうかもしれない。「個性」を自ら抑えても残るなにか。

網走在住、仲間智登志さんの木彫
* このエッセイが仲間さんの作品についてのものである、という意味ではない。(写真)

置け、砂のうえに礎石を

置け、砂のうえに礎石を。

築け、築け。

2015年1月19日月曜日

自分のことよりも

自分のことよりも、ひとのことを少し余計に気に掛ける。ひとの幸福を一番にして活動しながら、そのなかで、自分の幸福も見つける。

2015年1月14日水曜日

雨と木曜日(30)

2015.1.15.


今年は、早々から「早寝早起き」に縁があるみたいだ。あるひとに「今年の抱負は」と尋ねたら「早寝早起き」と返ってきた。またべつのひとは、9時を過ぎたら「きみたちにとっての深夜12時過ぎみたいなものだ」と言って、早寝早起きを旨としていた。そして、ぱらっと新聞を読んでいたら「某商社では早朝の時間外労働に高い手当をつけたら夜の残業が減って朝型にシフト」の記事。これは僕も早寝早起きしてみようかな。

***

ウェッジウッド(WEDGWOOD)と言えば、英国王室御用達のブランドだが、紅茶のイメージが強い。茶器は、美しく薄い陶器。ティーカップとソーサー。繊細な模様。お茶は、ダージリンやアールグレイのティーバッグが青い優雅な箱に入っている。贈答品に使われる。……そんなウェッジウッドの印象だったが、先日、叔母からコーヒーのドリップパックをやはり青い箱でいただいた。なかなか美味しい。まさかコーヒーもあるとは知らなかった。

***


COFFEE DIARY 2015 という素敵な手帳をいただいた。川口葉子さんが著者で祥伝社から出ているから、本の扱い。中身は、ウィークリーダイアリーに写真やコーヒーにかかわる名台詞や歴史がちょこちょこと差し挟まれている。ふつうの手帳として十分に使える仕様。名台詞はいろいろあるようだが、「私たちはコーヒーカップの中の一滴にすぎない」(田口護さん、カフェ・バッハ)は小気味よい。南千住の老舗だ。


超人的なもの(芸術、スポーツ)

ぼくにとって超人的なもの(芸術、スポーツ)は最大の関心事ではない、とこの頃、考える。強く持続的な関心はあるのだが、最大のではない、と思う。

ルネサンス以降の西洋の芸術や、19世紀以降にとりわけ盛んになったスポーツでは、超人的な技が注目を集める。ひとりの人間が恐ろしい集中力や訓練、長い職人生活をもとにして繰り出す技。そして、その底にある、異様なものとしての「天才」。

そういうものの成果が、ここで言う「超人的なもの(芸術、スポーツ)」だ。それはたしかに鳥肌が立つような驚き、素晴らしいという感動を与える。全身をもっていかれ、心の底から揺すぶられるような心地もする。けれども、それはひとときのことで、数ヶ月か十年経てば、それほどでもない、という気もする。

ここで「超人的なもの」に対置させたいのは、「普遍的なもの」だ。たとえば、ホメロスの叙事詩。マザー・テレサの言葉。そこには、ありふれた言葉も見られ、くり返しもあり、「オリジナリティ」や「(個人の)独創性」といった観念は意識されていない。

そこにあるのは一瞬の爆発やとてつもない閃光ではなく、持続するなにか、本を売るときの「ロングテール効果」のように、時間の継続を感じさせるもの。それは、いつしか起伏を忘れ、平坦にかぎりなく近くなりながら、それでも、心の奥底に水たまりのように残って、静けさを湛え続けるもの。

そういう普遍的なものにほんとうに心をひかれる。ゆかしさも、そこにはある。

ひとづきあい

ひとづきあいは、よいところを見つけたときに始まるけれど、お互いボロが出るようになってからが面白い。

ひとづきあいは、長所に惹かれ合うことから始まりやすい。お互い、初対面であれば、なおさらだろう。まずはお互いのよさを認めて、「気が合う」「話が合う」などと思う。

けれども、長続きする友人を思い浮かべると、長続きする理由は、むしろ欠点が似ているためである場合が多い。欠点が似ていると、お互いどうしてバカなことをしでかすのか、感覚で理解できるから寛容になれる。この「欠点が似ている」ことの方が、「長所が似ている」ことよりも大事だと感じる。

ひとづきあいは、お互いよいところを見つけて始まるとしても、むしろ、欠点を理解し、認め合えるかどうかの方が、面白みであるように思う。

2015年1月13日火曜日

世間話と"無知の楽しみ"

世間話のなかには、無知の楽しみ、というものがあると思う。

たとえば、北海道大学について、東京のひとが、

「冬は吹雪のなかを歩くらしいよ」
「キャンパスも広いから、なかで遭難するんじゃない?」

と笑うとして。冬の北海道に来たことがなく、聞きかじった話や映像によって知っている程度で、あれこれと面白おかしく想像が広がるとしたら、世間話(単なるおしゃべり)の話題として楽しめる。

しかし、そこへ実際に北大に通っている学生も同席したら、「いや、そうはいっても大学は札幌駅から近いし、除雪もしっかりされるし、……」ときちんと実情を伝えるかもしれない。それは正しい知識かもしれない。

けれども、そのとき世間話から失われる楽しみ、というものもあるのじゃないか。正しい知識や実体験が差し挟まれることで、想像のなかで無責任に遊ぶ楽しみが損なわれる、というような。

世間話≒おしゃべりは、知識の交換ではない。必ずしも知識を提供することが話題を提供することでもない。きっかけはごく小さな知識でも、そこから「無知の楽しみ」が広がりうる。それは「たくさんの知識」や「正しい情報」によって埋め合わされなくても大丈夫。

僕は学術的な世界に十年近く浸っているうちに、ついつい知識が話題であるような、それも正しい知識が……というような「おしゃべり観」を身につけていたけれど、そうでもないんだね、といまさら気づいて、改めて書いてみた。

自由と安心

僕が自分の人生でほんとうに大切だと思うもの、自由と安心。

自分が自由でいたいし、安心がほしい、というだけでなく、周りのひとが自由でいられて、安心を得られるようにはたらきかけたい。


2015年1月12日月曜日

【エッセイ】ハイパーなひとびと

ここでは「ハイパー」なひとびとについて話をしたい。「ハイパー」は僕の造語だが……。

1.ハイパーとはなにか。

以前、友達が「精神的に危ない状態になると、おしゃべりが止まらなくなる」と言っていた。理解ある友達が聞き役に回ってくれると、解消できるそう。その状態を「ハイパーになる」と表現していた。このときから、僕は「ハイパー」という言葉を、一種の造語として頭に入れた。

自分にも思い当たる節がある。僕は哲学をするが、抽象的な問題にぴったりの概念を当てはめて、なおかつそれを平易な言葉で説明しよう、とするときなどに頭がフル回転する。回転のスピードも速く、速記もできないような、観念的な思考を経ながら、なんらかの文章に考えを落とし込む。その後、消耗した状態が訪れる。この間を「ハイパーな状態」と呼べると思う。

ところで、多動性の子供を「ハイパーアクティブ」と呼ぶ。「行動」のハイパーだ。だけど、心の動きや思考や芸術活動の「ハイパー」もあるだろう。

こういう、常人では想像しがたい状態に陥る、入り込むことを「ハイパーになる」と表現したい。それは、単なる「社会不適合」や「精神的な不安定」ではなく、多くの場合、なんらかの異色な能力になりうるのじゃないか、と思う。たとえば、芸術家として、または特殊な技術やスピードある仕事をこなす職業として。

2.ハイパーと心身のアンバランス。

ここで、経験的な仮説を立てたい。それは、「ハイパー」なひとは「特殊な能力や集中力を発揮することができる代わりに、なんらかの精神的消耗や不安定、あるいは心身の不調を抱えやすいのではないか」というものだ。

つまり、ひとは「ハイパーになる」という特殊さをもつと同時に、心身のアンバランスも経験することになる、ということ。「ハイパー」は周りのひとがついてこられないような異様な状態であり、その点、すぐれた能力や才能を発揮することもありえるが、その反動や代償として、「ふつうのひと」ならば、もたなくてよいような「病的」とも言える心身の状態も経験せざるを得ないのではないか。

これは自分を含め、周りの人と接していて、自然と抱いた感想であり、経験則にすぎないのだが、どうもそんな気がする。偉人やユニークな人物の伝記を読んでいてもそうだ。

3.ハイパーなひとはどうすればよいか。

さて、ハイパーなひとは、このように弱点も背負うことになりそうだが、では、どんな風にハイパーさとつきあうのがよいだろうか。おそらく、ふたつのことが大事だ。ひとつはハイパーさを長所として活かすこと。もうひとつは、心身のアンバランスを低く抑えるために、ハイパーさを制御するように心がけること、だ。

このふたつは両立できないわけではなく、妥協点を探すように、「活かす」と「制御」のバランス感覚を磨いて、ひとまずの安定が得られる生活スタイル、生き方を探し続けることが大切になるだろう。ひと言で言えば、社会的におさまりのつく生活に着地できるように「ハイパーになる」こと。

とはいえ、そんな風にはうまくいかないところが「ハイパー」なひとたるゆえんなのかもしれないが……。

2015年1月8日木曜日

雨と木曜日(29)

2015.1.8.

日本のロックバンド「くるり」の最新アルバムを遅ればせながら、ゆっくり聴いていた。アルバム一枚がまるごと一曲であるようなつながり具合。それぞれの曲の個性も活きているし、くるりらしいテイストの統一感もあり。なかでも、"Liberty&Gravity"という曲がすばらしく、よい意味でクレイジー。こんな名曲は日本のロック史上、というか世界に類がないのじゃないか、と思った。

こちら、YouTubeの動画もものすごく変。(http://youtu.be/LSDx4htNfjs

***

歳末に「コーヒーバッグ」という贈り物をいただいた。ティーバッグのように、カップ一杯分のお湯につける「バッグ」なのだが、コーヒーが抽出される、というめずらしいもの。おもしろくって淹れ方を(出し方か)ちょこちょこ変えてみたが、きちんと味の出方も変わり、楽しい商品。7種類くらい入っていて、味のちがいも楽しめた。ブラジル、コロンビア、エルサルバドル。高級感もあって贈答品としてもおしゃれでした。

SHERPA COFFEE : http://www.sherpacoffee.com/

***

モーリス・ドリュオンの『みどりのゆび』は、「みどりのおやゆび」をもつ子供の物語。チトは、そのおやゆびで触れた種を発芽させてあっという間に成長させてしまう、とくべつな力をもっている。空気中を漂う小さな種にも触れられるから、なにに触れても、そこから緑がいっぱいになる。その力を使って、大砲工場をだめにしたり、しまいには戦争を止めさせる。そして、背の高い木をはしごにして天に登り、帰ってゆく天使として描かれる。

【書誌情報】
『みどりのゆび』、モーリス・ドリュオン著、ジャクリーヌ・デュエーム絵、安東次男訳、岩波書店、2009

2015年1月3日土曜日

【童話】右手が眠ってしまった男の子

みなさんはオーロラのおはなしを覚えていますか。
わたしが、かわいそうなオーロラ、エルメス・アウロラと歌った、女の子のおはなしです。
今日は、あのオーロラのおはなしを聞いた男の子のおはなしをしましょう。
男の子の名前は、ピティンと言います。

***

ピティンは元気な8才の男の子でした。よくボール蹴りをしました。
ものしずかな男の子でしたが、よく友達と遊んでいました。
いつもはにかむように笑っていて、おとなしく立っていました。
心やさしい少年でした。

ピティンは書き取りもよくできました。
むずかしいアルファベットや漢字や、なにやらを書きました。
そして、ちょっと聞いてほしいのですが、ピティンは右利きでした。
右手でペンを持ったのです。

ある朝、ピティンが起き上がると、右手だけがまだ寝ていました。
ピティンが目を覚まし、「ふあ〜あ」とあくびをして、ぐいっと背伸びをして起き上がっても、右手はふわりと垂れ下がったままなのです。
まったく力が入りませんでした。

そのまま、ピティンの右手は目を覚ましませんでした。
昼も夜も眠ったままでした。
ピティンの右手はそっと胴体に寄り添ったまま、動かなくなってしまったのです。
温かいまま、肌はつややかなまま、眠っています。

ピティンは左手で字を書こうとしましたが、ジグザグしてうまくゆきません。
ボール蹴りをしてもバランスがとれません。
学校ではからかわれました。それでも、にこやかに笑っている、ピティン。
右手が眠ってしまった男の子、ピティン。

翌朝、ピティンはノルウェーを目指しました。
そこには、ひかりの女の子オーロラがいると聞いたからです。
かわいそうなオーロラ、エルメス・アウロラの歌を、おはなしを聞いたのでした。
だから、ぼくもそこへゆこう。

いま頃、オーロラはどうしているのでしょう。
ピティンはスケート靴を履きました。ピカピカのスケート靴でした。
スイスイ、氷の上をすべりました。凍った川の上を、青い空の果てまで
ピティンはスケート靴で走りました。

パーンと音がしてスケートがはじけました。
紐の結び方が弱かったのか、左の靴が飛びました。
ピティンは白い川のうえに転んで、夜空を見上げました。
そこには、ひかりの帯がかかっていました。

「オーロラ!」とピティンが呼びかけました。
「きみの歌を聞いたよ。エルメス・アウロラ。ねえ、降りて来てよ」
ピティンが名前を呼ぶと、オーロラはいつの間にか
虹色の少女の姿でピティンのすぐそばに立っていました。

「こんばんは」
「ぼくはピティン。右手が眠ってしまったんだ」
「どれ?」
「ほら」

ピティンが立ち上がると、オーロラはその右手に触れました。
ひかりの手で。その手はピティンの右手を掴んで、そうっと持ち上げました。
オーロラの手は、なんだってすり抜けてしまう、ひかりの肌でできているのに、
いまはピティンの右手をしっかりと支えました。

「ありがとう」
「どう?」
「目が覚めたよ」
「うごく?」

ピティンは右手を開き、手のひらを見せ、そして手の甲を見せました。
右手が眠ってしまった男の子、ピティンはもとに戻りました。
オーロラは左手をピティンの右手に重ねました。
ピティンがオーロラに言いました。

「帰ろう」
「うん」
「ノルウェーの北の果てから、戻ろう」
「もといたところへ」

こうして、ふたりはひかりの帯が消えた空の下、歩いてゆきました。

***

これで、オーロラとピティンのおはなしはおしまいです。
いちどはノルウェーの空で歌っていたオーロラも
右手が眠ってしまった男の子ピティンも
自分のいた町へ帰って行ったのです。

【童話】かわいそうなオーロラ

ひとりの小さな女の子のことを話しましょう。
彼女は「かわいそうなオーロラ」(エルメス・アウロラ)と歌われています。
ひかりのような女の子でした。まさしく、ほんとうにひかりでした。
そのおはなしをしましょう。

***

オーロラは6才でした。お花もみとれてしまうほど、可愛い女の子でした。
彼女がほほえんだら、まわりじゅうほほえみました。
彼女が笑ったら、草木も笑いました。
その肌はひかりでした。

ある晩、みんなでダンスをすることになりました。
男の子と女の子で手をつなぎました。みなさん、小さなお手々でした。
ぎゅっと結んで、くるくると踊りました。けれども、男の子がオーロラの手をとろうとして言いました。
「オーロラ、君の手はさわれないよ!」

かわいそうなオーロラ。
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
かわいそうなオーロラ、あなたはひかりでできていました。

オーロラのからだはひかりのようでした。ひかりにかすんでいました。
ひかりでできていました。だから、だれもオーロラにさわれませんでした。
踊りの男の子も、「ちぇっ、つまんないや!」とそっぽを向きました。
オーロラがぎざぎざの葉っぱに触ろうとしても、手が葉っぱをすりぬけてしまいました。

ちいさなオーロラ、おさないオーロラ。
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
ちいさなオーロラ、おさないオーロラ。あなたはなにもわるくないのです。

生まれつき、オーロラはひかりでできていました。
だから、だれもオーロラにさわることができず、だから、なにもオーロラはさわれませんでした。
太陽に照らされて、虹のようにかすんでいました。霧のように透けていました。
そうでなければ、ふつうの女の子でした。

かなしみのオーロラ
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
かなしみのオーロラ あなたはやさしい七つの色でした。

オーロラはそんなわけでだれともダンスできませんでした。
ひとりでつったっていましたが、だれも手を握れませんでした。
オーロラは歌いました。歌声は水のように染みわたりました。
静かな歌でした。

ゆくの ゆくの オーロラ どこへゆくの
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
ゆこう ゆこう オーロラ 彼方へ

オーロラはノルウェーへゆきました。
ノルウェーになら、すわるところがあると思いました。
北の果てのノルウェー、ノルウェーの北の果て
そこには、ひかりの肌の王国があると言いますから。

ゆくよ ゆくよ オーロラ あとすこしだよ
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
来たよ 来たよ オーロラ ここじゃないかな

北の果て、ノルウェーでオーロラは石に腰掛けました。
大きな石でした。そこにオーロラは腰を下ろして、空を見上げて
その空は夜空でした。夜は長く、ひかりの帯が垂れ込めていました。
さらさらと揺れて、ほのかに匂い立つようでした。

ここだ ここだよ オーロラ きみはすわるところへ来たんだ
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
だいじょうぶ オーロラ ここはいいところだよ

石は変わらず、そこにあるけれど、だれも座ってはいません。
オーロラはひかりの帯になり、空で歌っていました。
「ずっとふつうになりたかった」
それだけがオーロラの願いでした。

かわいそうなオーロラ
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
かわいそうなオーロラ あなたは歌声をのこして

そして、だれもいないノルウェーの北の果てに歌が流れました。

***

これで、ひかりの女の子オーロラのおはなしはおしまいです。
オーロラはどこかから来てどこかへゆきました。
みなさんもオーロラのことを思い出したら、ひとつ口ずさんでみてください。
エルメス・アウロラ
エルメス・アウロラ
かわいそうなオーロラ、と。

続編はこちら。「右手が眠ってしまった男の子