2013年10月31日木曜日

【俳文】札幌便り(12)


本の執筆が佳境を迎えて。

書き上げても書き上げても青蜜柑

「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)の真似をしてみるが、これはきちんと熟さないと困る。

旅に出でなんとす紅葉かつ散れば
丸いのもハートの型も紅葉かな
秋深しこの靴ももう二年経つ

円山公園は十月の半ば頃から黄葉がちらほらと散り、十月の末には紅葉も真っ盛りとなった。

行く秋や同じ木を見る何度でも

体調を崩すこともあった。身体を温めるはと麦茶は、あれこれ試してみたけれど風味がずいぶんちがう。

オレンジのクッキー甘く秋深し
ゆっくりとひと粒ずつの葡萄かな
仲秋やあたりはずれのはと麦茶

十月の半ばに帯広や富良野など、各地で初雪を観測した。着々と冬は来る。札幌の家の周りでは降らなかったが、銀色の(白く光る)「雪虫」が飛び始めた。これは小さな羽虫で、銀色の羽を二枚持っており、群れをなして飛ぶ。雪が降る少し前になると、わあっと飛び始めるので、初雪を告げるとも言われる。

ひととせをふたとせにせよ今日の雪
雪虫や雪の降るのを告げるらむ

暦の上で立冬を迎える前に雪の句となってしまった。そういえば、中秋の名月に次いで美しいと言われる後の月。旧暦九月の十三日の札幌は晴れた。

足取りも軽く運べる十三夜

近頃、『蕉門名家句選』(岩波文庫、上下巻)を読んでいる。冬の句が目につくので紹介したい。

あたらしき茶袋ひとつ冬篭 荷兮(かけい)

簡素な冬篭りを詠んだ句。

あたらしき珈琲淹れて冬篭り

と、こちらも詠んでみたくなる。ほかには、

はつ雪を見てから顔を洗けり  越人(えつじん)

初雪が降っていたら、まずは床を起きて外を見る。その気持ちは風雅のものか、童心のものか、ないまぜになった人の情かもしれない。さて、初雪の待ち遠しい我が家では、まだ風呂を焚かず、シャワーだけで頑張っている。

霜降もシャワーで済ます蝦夷の家

動物界は、もう冬の準備に忙しい。人間で言えば師走のようなものだろうか。

エゾリスははや霜月もせわしなく
十月の薄き光の小山かな

ところで、「引鴨」「帰る鴨」は本州では春の季題だが、北海道では逆になる。鴨たちは北海道で夏を過ごし、池が凍る前の秋には本州へ帰ってゆくのだから。

帰るまで水遊びせよ池の鴨

そこで、秋の季題とした。無邪気そうな鴨の群れ。

遠鴉のみ色ありや冬の空

「とおがらす」は造語。真っ白というべきか灰一色と言うべきか、札幌の冬空がやってきたと思う。

小夜時雨足はおのずと珈琲屋

冬支度をじっくりと進めよう。

2013年10月21日月曜日

【映画を読む】クロワッサンで朝食を


フランス映画「クロワッサンで朝食を」を観て来た。シンプルだけれど、深みのある映画だ。この映画を「読解」してみよう。※ 以下では、ストーリーの詳細から結末まで触れるので、これから観にゆかれる方は読まないことをおすすめします。

エストニア人のアンヌは、齢50を過ぎた女性。故郷で介護をしていた母の死をきっかけに新たな仕事を始める。それは、パリでエストニア人老婦人の家政婦として働くというもの。空港で彼女を待っていたのは、ハンサムな同世代の男ステファン。彼は老婦人の家にアンヌを案内をして、「辛辣な皮肉屋」だから気をつけるように言い残して去って行く。

老婦人フリーダは、気紛れできつい女性。アンヌは手作りの朝食も食べてもらえずに、この仕事を辞めようかと挫けそうになる。ステファンがそれをとどめるが、「あなたはフリーダの息子なの」とたずねるアンヌに、彼はフリーダが昔の恋人であったことを明かす。孤独なフリーダの来歴を知るにつれ、愛をもって接するように努めるアンヌ。パン屋で買ってきた美味しいクロワッサンを朝食に並べて、ついにフリーダからよい家政婦として認められる。

フリーダとアンヌは、ふたりでパリの街を歩く。ふたりは母と娘のような、少し親密な関係を築き始める。だが、ステファンのひと言で物語の雲行きが怪しくなる。「僕には僕の人生がある。」もう愛のないことを思い知らされたフリーダは不機嫌になり、また辛辣になる。慰めようとして事態を悪化させたアンヌは、フリーダと決裂、家を飛び出して故郷への帰路につく。

ここから、物語は速度を速めてクライマックスを迎える。ステファンがひとりでフリーダの家をたずね、泊まって行く。ふたりの間にはなにも起こらないが、眠ってしまったステファンの耳に「あなた、アンヌと寝たでしょう」とフリーダが笑顔でつぶやく。翌朝、結局、帰るのを思いとどまったアンヌがフリーダの家を訪れる。鷹揚なフリーダが出迎えて、やさしく言う。「ここはあなたの家よ。」

こうして、ハッピーエンドで終わる。

最後のところ、展開は早いし、なぜフリーダが心の余裕と愛情を取り戻したのか、いまいちわかりづらい。なんとなく答えるとすれば、「アンヌと喧嘩別れになったのを後悔し、自分のもとに仮にも戻ってくれたステファンの愛をうれしく思って……」といったところだろうか。やや唐突なハッピーエンドにも見える。

ここをきちんと「読んで」みよう。最後の場面は、アンヌとステファンがふたりそろって、フリーダの家に招き入れられるシーンだが、ここはまるで息子と娘が母親の家に帰ったような映像になっている。フリーダが母親で、アンヌとステファンは息子夫婦、または娘夫婦だ。ここに物語を解く鍵がある。

フリーダはステファンの「昔の恋人」であり、恋愛関係を引きずっていた。けれども、それは捨てられて見込みのない関係だ。他方、アンヌに対しては、「よい友達でもあるような家政婦の女主人」という立場だった。どちらも、フリーダにとっては中途半端な人間関係であり、彼女の孤独を癒すものではない。そこで、フリーダは無意識のうちにか、半ば意識してか、ステファンとアンヌのふたりにとって同時に「母親」の役回りになるという決断を下す。それが、もつれて不安定だった関係の糸を切って結び直した。三人は、一挙に親密な三角形を築くことに成功する。これが物語の「解決」であり、ハッピーエンドの意味である。

だから、ステファンとアンヌが「寝た」ことに対しても、フリーダはもう腹を立てたりしない。フリーダは恋の第一線を退き、むしろ、ふたりの仲を喜ぶ。そして、ふたりの息子と娘に愛され、また彼らを愛する「母親」という安定した立場を見出したのだ。

ちなみに、「クロワッサンで朝食を」の原題は、フランス語で "Une Estonienne a Paris" であり、「パリのエストニア人」だ。なんて素っ気ないタイトル、と思われるかもしれない。だが、よく見てみよう。冠詞の "Une" がついているから、単数の女性形だ。「パリのひとりのエストニア人の女性」となる。それは誰だろう? 映画のはじめを見る観客にとっては、まちがいなくアンヌだ。田舎から大都会パリに出て、厳しい環境で新しい人生を歩み始めるのだから。だが、物語のクライマックスになると、表題の意味する女性はフリーダに変わる。三人の関係が破綻するのを食い止めたのは、フリーダが母になるという変化、そう、この映画は全編を通してフリーダの成長物語であったとも言える。ステファンとアンヌは、恋に落ちたけれども人間として変化したり成長したわけではない……。

こうして、映画の原題にも深い意味が込められていることがわかる。アンヌとみせかけてフリーダ。そういうユーモラスなねじれ、ちょっとした遊び心のある引っかけが、この原題には込められている。こんな風に、この映画を「読む」ことができるだろう。

2013年10月10日木曜日

はてしない物語のふたつの読み方——ファンタージエンの友達


はてしない物語には、ふたつの読み方があると思う。焦点は後半だ。ここは文学的で、思想的になっているが、奥底には平明なものがあると思う。それをどう読むか。

『はてしない物語』はミヒャエル・エンデの作品で、児童文学として日本でも親しまれている。物語は、「でぶでエックス脚の」いじめられっ子、バスチアンが古本屋に入るところから始まる。彼は、ある本に引きつけられて、店主がいない間にその本を盗み出してしまう。お母さんが死んでからというもの、お父さんは虚ろになってしまった、学校では教師からも仲間からもばかにされる。バスチアンには居場所がない。そこで、学校の屋根裏にある物置に籠もって、バスチアンはその本を開いた。それはファンタージエンという世界の不思議な物語だった。——

物語の前半は、ファンタージエンの大冒険が描かれる。本のなかの本の主人公アトレーユは勇士であり、幾多の危機を乗り越えてファンタージエンの世界を滅亡から救おうとする。そのためには、実はファンタージエンの「外」にある人間の子供の力が必要だーーバスチアンはいつしか本の世界に文字通り「引き込まれてゆき」、そのなかへ入ってしまう。そして、バスチアンが最後の鍵となることで、ファンタージエンは救われる。

ここまでが『はてしない物語』のなかでもとくに有名な部分ではないかと思う。不思議な本のなかと外がリンクして、現実世界では才能のないと思われている、だが想像力だけはふんだんに持ち合わせている少年が、本のなかの世界を救う。ところが、ここから難解な後半部が始まる。

後半では、ファンタージエンを救ったことにより、その世界ではどんな望みもかなえられるようになったバスチアンが奇妙な冒険をくり広げる。バスチアンが「物語」をすると、それがファンタージエンにおいては現実になる。あらゆる望みがかなうバスチアンは、美しい容姿や無類の強さ、知恵といったものを順々に手に入れていくが、その代わりに現実世界の記憶を次々に失っていってしまう。ファンタージエンで友人になったアトレーユは、彼を心配してもとの世界に帰るよう説得するが、それを疎んじたバスチアンは「もう帰らない。」と宣言し、アトレーユと決裂、ファンタージエンを二分する戦争まで引き起こし、アトレーユと剣で切り結ぶ。その後はひとりで放浪するが……

後半の読み方でたぶんポピュラーな、受け入れやすいものは、バスチアンの成長物語であるというものだろう。ドイツには、ゲーテ以来「教養小説」(これは誤解を招きやすい訳であり、原語はBildungsroman。英語のbuildに当たる言葉+小説で、「(人間や人格の)形成小説」という意味。)というジャンルがあるが、その一種と読む読み方である。主人公(バスチアン)はいろいろな体験をする、失敗もする、だがそのなかで学ぶ、そして誠の人間として生まれ変わる、という読み方である。それによれば、万能の魔法を手に入れたバスチアンが、はじめはそれを楽しみ、次いで慢心してゆき、ついには世界の「帝王」になろうとして友人さえ刃にかける、だが、その後の放浪のなかで、記憶をなくしてゆく自分に危機を覚え、また、「最後の望み」として「愛すること」を見出し、現実世界に戻っていく、というストーリーである。

こうして、バスチアンの人格が陶冶され、完成される「教養小説」である、というのがひとつ目の読み方である。しかし、僕はこの読み方に疑問を感じる。どうも、バスチアンにはきちんとした人格がないように思える。決断や選択も主体的と感じられない。ものごとのなりゆきに任せて、心情のゆくままに物語は流れてゆくだけのようなのだ。

それどころか、バスチアンは堕落してゆくようにさえ見える。ファンタージエンの帝王になろうとしてそれを諫める友人を刃にかけるわけだから。非がバスチアンにあるのは明らかだ。そして、その後の放浪でも彼は記憶を失い、望む力も少なくなり、このままファンタージエンに閉じ込められてしまうのではないか、というところまで状況は切羽詰まる。そして、最後にバスチアンは名前さえ、失ってしまう。「バスチアン・バルタザール・ブックス」は「名前のない少年」になってしまう。自分の名前も忘れたのだ。

それを救ったのは、アトレーユだった。アトレーユはバスチアンといっしょに現実世界に帰れる門に来て、バスチアンの代わりに門を司る者と話をする。

「記憶のないものは、ここへ入ってくることができない、蛇たちは通さない、といっている。」
「かれにかわって、ぼくがみんな覚えています。」アトレーユが叫んだ。「かれ自身のこともかれの世界のことも、ぼくにはなしたことをみんな覚えています。ぼくが証人になります。」

だが、おまえになんの権利があるのか、と問われてアトレーユは答える。

「ぼくは、かれの友だちです。」

その結果、「名前のない少年」は門を通過することを許され、「生命の水」を得て現実の世界へ帰ってゆく。父とバスチアンは愛情を取り戻し、バスチアンはこの体験の前よりも勇敢な少年になる。彼は、本を盗んだことを告白するべく、古本屋に向かう。店主はそんな本は置いていないし、バスチアンに会った覚えもないと言うが、バスチアンが不思議な体験の話をすると耳を傾けて、こう言う。

「そうだな。」ぼそりといった。「きみは幸せだよ。ファンタージエンに友だちがいるんだから。みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」

この言葉が、『はてしない物語』の後半を解説しているように思う。これは「教養小説」の類ではない。バスチアンはものごとのなりゆきに取り込まれ、自らその一部としてふるまった。その怒濤の流れが物語の後半を形作っており、ついに最後の裁定の場面に至る。そこで、彼を人間世界に帰したのは、アトレーユの言葉だった。バスチアンは、たしかにいろいろな体験をしたのだが、決定的な場面で彼はまったくの無力だった。実際、名前まですべての記憶を奪われて、なにもできなかったのだ。

ここでアトレーユが登場することには、ふたつの意味を読み取れると思う。ひとつは、もちろんバスチアンの「友だち」であったということ。そして、もうひとつは人間世界の、現実世界の住人ではない、本のなかの住人であるということ。

だから、最後の古本屋のセリフにつながっていく。「きみは幸せだよ。ファンタージエンに友だちがいるんだから。」ファンタジー(空想)の世界に「友だち」と呼べるような存在がいるということ。それは、わたしたちみんな、本を読むことに楽しみをもつひとならば、誰でも体験できることだ。バスチアンでなくても。そして、そういう「友だち」をもてるかどうかは、ときにひとの人生を左右するだろう。彼らはわたしたちを支えてくれるからだ。ほんとうに、古本屋の店主が続けて言ったように、

「みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」

誰もが「友だち」をもてるわけじゃない。おそらく本を愛せるひとだけが……

本のなかに、それも「作者」ではなく、ファンタジー世界の登場人物に「友だち」を見出せるということが、とても価値のあることなのだよ、とエンデは語りかけているように思える。