2012年10月31日水曜日

【ハロウィンの童話】パンプキン・バー


 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

10月31日は、子供たちの喜ぶハロウィンの夜。もとはケルトのお祭りですが、いまはキリスト教徒もお祝いします。

カナダの冷たい夜でした。たくさんのともしびが、ジャック・オ・ランタンというカボチャのお化けの口でチラチラ光っていました。街中が騒がしく、子供たちは、”Trick or Treat !”(トリック・オア・トリート!)と叫びます。ーーこれは、「おかしといたずら、どっちがいーい?」という意味でした。大人たちは、いたずらされるよりはおかしをあげたがるでしょう!

エナはあめ玉に仮装しようと決めていました。みんな、なにかに仮装するのです。エナちゃんのあたまはおっきなキャンディーになりました。「ママ、早くして!」「だけど、どうしてあめ玉なの?」「甘くて丸いから!」

コロコロと、エナは外へ飛び出しました。−5℃のストリートです。ママも急いでコートを羽織って、追いかけました。「わたしは寒くって。あなたは、すばらしい帽子を、かぶっているからいいけれど」。たしかに、エナの頭はすっぽりとおおわれていました——キャンディーの包み紙に。

家々のかぼちゃの灯がぼうと光る中を、二つの黒い影が走ります。たったった、たったった。あちこちの庭で、チョロチョロ動く気配があり、小さなお化けたちのクスクス声が聞こえます。やがて、ふたりはお化けの集まる広場へたどり着きました。

 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

エナちゃんは耳をそばだてて、その歌声を聞きました。「あっちだ。」向こうに、黄色く塗りたくられたキャンピング・カーが止まっています。なにか、おかしを配っていますよ。
「それなぁに?」
「こりゃ、パンプキン・バーさ。」
コウモリのお化けが答えます。ぱたぱた、と羽が動きます。となりのドラキュラみたいな侯爵がにやりと笑いました。
「かぼちゃをとろとろに溶かしてね、われわれ特製のクリームチーズといっしょに、ココアクッキーのうえで焼き上げた、上等なおかしなのさ。」なんておいしそうなのでしょう!コウモリは、あたりを見回して言いました。
「だけど、お嬢ちゃん、ママはどこ行った?こいつは一本1ドルするんだよ。」
そういえば、見当たりません。
「ママ?」
はぐれてしまったようです。これでは、パンプキン・バーが買えません!
「このおかしはね、売り切れちまうのが早いんだ。」
コウモリがちょっと困ったな、という風に首をかしげました。——たいへんだ。エナちゃんは、広場の人混みの中へ分け入っていきました。

ごったがえす広場をかきわけかきわけ、押し進んでゆくと、「エナ、エナ!」と呼ぶ声が聞こえました。——ママ! エナは魔女の格好をしたママに抱きつくと、さっそくその手をとりました。
「ママ、たいへん。パンプキン・バーが売り切れちゃう。こっち、こっち。」
手を引くものの、エナはどこだかわからなくなって眉をしかめました。
「エナ、どっちなの。誰かひとに聞いてみましょう。」
「ああ、わからない。」
ふたりは、せっかくお互いを見つけたのに、今度はパンプキン・バーからはぐれてしまったのです。

ずいぶん、長いこと探し回りました。こころなしか人出が少なくなりました。あれ?あそこに見えるのは、あのキャンピング・カーです。まちがいありません。けれども、歌声が聞こえて来ないようです。コウモリとドラキュラは、真っ赤なドレスの魔女といっしょに、出店を片付けているところでした。

「ああ」とエナは悲しげな声をあげました。「もう店じまいなのですか?」と、ママが真っ赤な魔女に尋ねます。「そうよ。」コウモリが、羽を揺らしてこちらへ来ました。「お嬢ちゃん、やっと見つかった。」「パンプキン・バーは?」「待っていたんだぜ。かならず来ると思ったからね。ほら、ここに一本とってある。」そこには、オレンジと紫で包まれた細長いおかしがありました。

「ありがとう!」エナちゃんは顔を輝かせました。包みを開けると、黄色と黒のパンプキン・バーが姿を現しました。カボチャとクリームチーズの黄色は、なんとも甘く、幸せな噛みごたえがあります。それが、ココアクッキーを砕いた板のうえに乗っかっているので、ばりばりほうばると、黒い粉がエナの口元からこぼれ落ちました。ママはエナと顔を見合わせて、「やったね。」とにっこり笑いました。

 “パンプキン・バー”を知ってるかい?
 世にも不思議な黄色いおかし
 この夜にしか食べられない
 君も一本買っといで!

こうして、カナダのハロウィンは、ママとエナにもおかしな幸せを配ってくれたのです。

2012年10月29日月曜日

俳文——札幌便り(3)


ふと、一昨年の句を見つけた。

栗一つ落ちて間もなき山路かな

奈良の大和路を歩いていた時のものだ。栗と言えば、戯れの句も詠んだ。

めずらしや栗の入った栗ご飯

家で炊いた栗ご飯の黄色いのに、なんとも言えずいい心地を覚えて。もちろん、栗ご飯に栗の入っていることは「めずらし」くない。

めずらしやかたわれまわる秋の蝶

今年の秋に詠んだものでは、この句が本当にめずらしい。つがいなのだろう、片方の蝶の回りを、もう一方がくるくると回りながら、二匹で草むらへと飛んでいた。はっとしたものの、ちょうど体調も悪しく、道を急いだ。

毎日が病み上がりとや秋の風

異郷に越して、少しリズムを損なったろうか。からだはもともと強くない。そこで、山に登ってみよう、と思った。札幌には円山という小さな山がある(標高225m)。

セキレイの場所を取り合う朽ち木かな

山に入ると、小鳥が飛び交い、空気もしんと清められる。頂上までは、ものの30分。

頂の空に飛び込む赤とんぼ
みのむしの風来坊に似たるかな
昨秋を見下ろす山のもみじかな

去年も、同じような時期にこの山を登ったので、一年前を顧みる心地がした、下山の道。

ひそやかに水も色づく竜田姫

黄色や赤が水底に光る。北海道神宮の敷地へ入る。ちらりと視界を横切るのは、エゾリスだ。いまのうちに脂肪を蓄えているのか。

秋麗(あきうらら)檜を降る(くだる)リス太し

風が渡ると、ナラを揺さぶってぽろぽろとどんぐりがこぼれる。一つ拾えば、

どんぐりにまだらもようの若さかな

ぽいと天高くほうり投げてみた。先頃、ご無沙汰をしていた美瑛への小旅行も果たした。ここが僕の故郷、と思わせる不思議な佇まいの美瑛町。

遠雲の低くたなびき空高し
この町や僕は美瑛のななかまど
夜の闇と鉄の格子や秋涼し
秋思して夜の列車の早きこと

二句目、「僕は」と詠み込んだのは、冒険。「鉄の格子」は、改築されてずいぶん立派になった旭川の駅舎にて。

珈琲の浅き夢見し夜長かな

夜にふと珈琲を飲みたくなる気分があるが、眠りは浅くなる。珈琲の浅煎りと掛けた。中秋の名月も近い。

ふっくらと月は旅路の銘菓かな

空想に遊ぶ。子規が好きだった柿など食べながら。

もぎたてで奈良を出でけむこの柿も

本歌は、鎌倉を生きて出でけん初鰹(芭蕉)。そろそろ、帰省しようと思う頃。トーベ・ヤンソンさんのムーミン・シリーズでは、「スナフキン」という放浪者が、冬になると旅に出る。僕はよく「スナフキンみたい」とあだ名された。

晩秋や南の国へスナフキン

2012年10月25日木曜日

福永武彦『草の花』を読んで

『草の花』は、福永武彦の主要な小説である。

◆ 表題『草の花』について
可憐なタイトルだ。小説全文のうちで、「草の花」という単語は、2箇所に出てきたと思うが、印象的なのは、次の箇所である。

「そして、時間は絶えず流れ、浅間の煙は何ごともなく麓の村に灰を降らしていたのだ、草の花は咲き草の実はこぼれ、そして旅人は、煙のような感傷を心に感じていたでもあろう。」

ここは、物語の後半にあたり、主人公は、一人、信州で夏の休暇を取る。その冒頭の描写。

タイトルの由来は、直接的には、エピグラフ(巻頭の引用)に掲げられた聖書の句「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。」(ペテロ前書、第一章、二四)に求められるようだが、この聖句をどう作品とからめて解釈するかは難しい。というのも、小説のテーマは、汐見という無神論者の「孤独」と「愛」であり、きわめて個人的な信条と心情へ踏み込むものだから。作品の中では、「人はみな……」という語り口は採られていない。また、ヒロインの千枝子がキリスト者であるが、汐見は彼女の宗教を自分は拒絶して、自分の孤独を貫くのであるから。それでいて、なぜ、聖書からエピグラフをとったのか、僕にはよくわからない。

ともあれ、その前に引用した信州の描写は、印象的で文学的な色合いも強い。『草の花』というタイトルは、むしろ、著者にとっての信州の風景を凝縮した言葉であったのかもしれない。

◆ 友人、藤木との精神的な愛
小説の全体の見取り図を描けば、以下のようになる。まずは、枠構造があり、語り手の「私」が、サナトリウムで汐見(しおみ)という男を知る。汐見は、無謀な手術に挑み、死んでしまうが、その前に、「私」にノートを託す。それが、汐見の人生を振り返ったものである。「孤独」と「愛」が二重螺旋を描いたような人生を。物語は、ノートの中へ。

そうして、第一部では、汐見が十八歳のとき、友人の藤木と交わした愛について語られる。第二部では、二十四歳のとき、その藤木の妹である千枝子と交わした恋愛が語られる。いずれも、汐見の愛の情熱が、孤独のもたらす葛藤によって、奇妙にねじ曲げられ、相手と通じ合わないまま、終わる。

第一部は、藤木との友情を描くが、汐見はプラトーンのイデアなどを持ち出し、自分の愛情がすぐれて精神的であることを告げ、藤木にも同じ「愛し返し」を求める。汐見の愛は、少なくとも肉欲には基づいていないようで、藤木の魂の純粋さを愛している。ところが、汐見の思想が深まれば深まるほど、理屈っぽくなればなるほど、藤木は「そっとしておいてください。」とくり返し、汐見から遠ざかる。ほどなく、藤木は十九歳で病死する。かくして、汐見の思想的な愛は、彼のもつ思想によってかえって妨げられもする。それゆえ、汐見の思想上、避けることができない「孤独」の前に破れた、とも言える。

この第一部は、作者が作品構成のために、ひねり出した感を覚えた。おそらく、第二部の(よくある男女の)恋愛だけでは、構成上もの足りなくて、思想を十全に打ち出せない、などと考えて、第一部を設けたと思われる。というのも、藤木との友情だか恋愛だか、はっきりしない男同士の関係は、その心理描写やシチュエーションの作り方を見ても、作者の実体験や実感に基づいているとは思えず、とても観念的だからである。とにかく、二人きりになっては、汐見が藤木に愛を説いて(自説をぶつ)は拒絶されるばかりで、書き割りの前でお芝居をしているようだ。また、二人で水の上のボートに取り残されるシーンなどは、いかにも作りものの感が強い。この第一部を設けた目的としては、たぶん、汐見の「孤独」や「愛」が、性愛にかぎられない、普遍的な人間関係のもとで起こる、と作者は説きたかったためだろうが、どうにも小説としては弱いと思えた。

◆ 人間の愛と孤独
第二部は、千枝子との恋愛で、ここは景の描写も、男女の会話も、心理の変化も、小説家の腕が生きている。相変わらず、シーンの設け方は、「うまくできすぎている」感が強いものの、それは、この作品が思想的な小説であるということだろう。

汐見はここでは、思想上の(プラトンがどうのという)愛ばかりでなく、明確に、男女間の現実的な恋愛をも、生きている。千枝子に恋をして、キスを求め、身体に触れようとしている。その点、第一部よりも「孤独」の葛藤は、だいぶ現実味を帯びる。作品の終結に近い部分で、ふたりはこんな風に会話する。

ーーあたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でも、あたしにしてあげられることは何にもないんじゃないの。
ーー君が愛してさえくれればいいんだ。

ここでは、汐見は真摯に愛を伝えており、愛が孤独を癒す(治す)とさえ、「楽観的に」考えているように見える。ところが、この後、千枝子のキリスト教信仰が問題になる。

ーーでも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ。
ーーじゃ君は、誰か信仰のある人と愛し合えばいいさ。僕のような惨めな人間を愛することなんかないさ。

こう、皮肉を言ってしまう。けれども、その直後にはきちんと付け加える。

ーーしかし、誓って、僕ほど君を愛している人間は他にいないよ。

これは、汐見の率直な気持ちであろう。そして、この愛は、神の愛に対比して、まさしく人間的な愛、だろう。それは、藤木のときにそうだったような、精神的な純愛、ともちがう。それを含むとしても。

ところで、神については、汐見はこんな風に語っている。

——僕は神を殺すことによって孤独を靭[つよ]くしたと思うよ。勿論、今でも、僕はイエスの倫理を信じている。[中略]……わが心いたく憂いて死ぬばかりなり、と言ったゲッセマネのイエスの悲しみなんぞは、痛いほど感じている。しかしそんなものは、僕の文学的な感傷にすぎないだろうよ。君たち[千枝子たち]の信仰とはまるで別ものだろうよ。

すなわち、この小説では、(キリスト教の)「神」のテーマは副次的な題材であり、主題である「孤独」をよりいっそう強める、宗教の側から、宗教による救いを断ち切る形で「孤独」を強める、一つの手段となっている。そんな風に解釈できるだろう。実際、クリスチャンが書いた近代日本小説に比べれば、宗教的な話題や、その思想的闘いは、この小説であまり力強く描かれてはいない。

こうして、プラトニックな愛(精神化された愛)に依拠しつつも、もっと肉体や生活のつながりを採り入れた、人間的な愛を、汐見は求める。そして、いま見たように、そこには、神や宗教の入る余地はない。ところが、そういう「愛」をもつ一方で、汐見は「孤独」をもち、自分が徹頭徹尾、孤独を捨てない(たとえば、愛情に溺れることで捨ててしまったりしない。)ことによって、自分の精神を保っている。孤独というものを、ほとんど信仰するかのように、保つことで、汐見の存在が保たれている。すなわち、自身の精神的なバランスを保ち、また、汐見が生きていくための支えのようなもの(アイデンティティ、自分が何者であるか)を保っている。物語の終わり近く、ふたりは人目につかない高原の一隅で、身体を重ねそうになるが、汐見は、土壇場でそれを止めてしまう。こうして、汐見は自分の孤独を貫いて、恋を終える。千枝子はべつの相手と結婚し、汐見は兵隊として召集される。

◆ 『愛の試み』とともに
汐見は「孤独」を貫くことで、「愛」をも貫いたのだろうか。——それは、この小説の問いかけ、と呼べるかもしれない。つまり、汐見の「愛」は成就したのか、しないのか。作者は、あまり明確な回答を避けるとともに、この問いそのものをも、強く打ち出そうとはしていないように見える。「愛」の成功・失敗という結末の解釈よりも、「愛の難しさ」を、そもそも「愛とはなんなのだろうか」というところから、作者は刻印して、物語を記したように思える。そして、「愛とはなにか」の答えには、必ず、「孤独」という主題がつきまとう。己の、そして相手の「孤独」にどう処するか、ということと、「愛すること」は不可分なのだと、半ば前提のようにして、福永武彦は主張している、と言える。それが、小説という形ではなく、思想的な文章にされるのは、別著『愛の試み』においてだ。逆に言えば、『愛の試み』において、観念的で、敷衍されない「孤独」の概念を、こちらの小説を題材にして、探ることもできると思う。その意味では、『愛の試み』を読み解くヒントを散りばめたような、本でもある。