2013年7月30日火曜日

【俳文】札幌便り(9)


 空っぽの日をおもしろくする麦茶

トポトポと満たされるのは、器ばかりではなく。どことなく爽快な気分で書く。

 香水のふと立つペンをもつ手にも

出先で書けば、自分でつけた香水に驚くことも。七月の半ばに函館を見て回った。函館は北海道でもっとも歴史の深い街。とりわけ古い家並み、商店の残る谷地頭(やちがしら)から歩き始めた。

 白靴を古めかせたる谷地頭

「古めく」は自動詞と思うが、ここでは他動詞に使った。函館山の麓をゆけば、元町に出る。有名な教会群と巨大な瓦屋根の寺院。神戸の異人館街に趣は似るが、まったくの観光地とされるより、周りの街並みに馴染むところ、横浜も思わせる。

 元町の坂を転がる夏帽子

 夏シャツの連れ立ちて入る(いる)ハリストス

ハリストス正教会は、ロシア系の薄緑の教会。外国人観光客は、涼しげな格好で中を覗く。夜は、函館市民で作る、野外劇を観にゆく。

 あおぐ手も止まる団扇や野外劇

壮観であった。五稜郭を舞台に、光が行き交い、船が訪れ、華やかな衣装姿が走り回る。函館の歴史を十五の場面にして表す。わたしはいつまでも拍手していた。翌日は、ロープウェイに乗って昼の函館山へ。夜景はかなわなかったが、市街をよく見渡せた。

 ハンカチの先に津軽の海狭し

函館は、ガスり(霧がかかり)やすい港町で、下北半島もこの日は見えなかった。札幌へ帰ると、夏の催しがもっとも多い時期になった。

 飲めずとも割り箸割らんビヤガーデン

 後ろ身はなどかさみしき浴衣かな

 風鈴が身体の芯に響きけり

 ひらひらを好かずに迷う白日傘

 打水をかぶって笑う子供たち

最後のは近所の光景。そうもできない大人はせめて靴を履き替える。

 サンダルの形をなぞる日焼かな

じめっとした日は、梅雨のない北海道にもある。そんな日は

 洋服を引っ掛けた身も土用干

晴れたら、からだごと干してしまいたいと思う。それから、また生活句。

 露台には北国とても夜の匂い

 夏掛けを手繰り寄せては眠り込む

夏の夜にふとベランダ(露台)に出たときの匂いは、東京と同じで懐かしさを覚える。夏掛けは、夏の蒲団。こちらは、七月も終わるというのに、紫陽花が色鮮やかに咲き誇る。

 紫陽花に紅さす七月の終わり

リズムが変則的な句。次の「水中」(みずあたり)は、水物の摂りすぎでおなかを下すこと。夏の不調のひとつ。

 水中するも寝っころがればよし

 夏痩せも本を読みなば忘れけり

もっとも、本で忘れてしまっていいものか。栄養のない飲み物がよくないのかもしれない。

 しばし待て夏炉に沸かす珈琲を

2013年7月28日日曜日

詩情


「あなたにとって、人生で一番、大切なものは。」——そう尋ねられたら、どうだろう。多くのひとは、物質的な話をやめて、精神的なことがらに思いを馳せるのではないか。

ひとは、幸福について考えるだろう。たとえば、「安らかな気持ち。」平穏な生活が続くこと。明日も、できれば、明後日も。

「家族」と答えられるひとは、すでに十分な幸福を築いたひと、かもしれない。小さな子供がいて、妻と(夫と)仲睦まじい。幸福感。

ほかにも、芸術に触れること、小説を読むこと。
スポーツにおける快さ、躍動する感覚。

恋愛における「ときめき」を大切にするひともいる。味わう想いや切なさが貴重だと感じるひともいるだろう。

仕事の満足。ビジネスにおける成功にかぎらず、自分のライフワークに打ち込むこと。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

いろいろなことを書いたが、僕にとって、いま、一番大切だと思えるものは、詩情だ。

詩情、それはたゆたうもの、移ろいゆくもの。

僕は、ほとんど詩を書かない。けれど、それでも詩情はある。旅する風景のなかにも、一杯の珈琲のなかにも。友人と交わす会話のなかにも、午前の陽を浴びるときにも。

そして、それは芸術的な霊感のようにおおげさなものではない。詩歌を紡ぎ出せるインスピレーションでもない。

たしかにそれは気持ちのありようだが、名前をもっていない。愛情や慈しみの偉大さでもなく、ノスタルジーのように浸れる感傷でもなく、涙とともに我を忘れる感動の類でもない。

胸のうちに泉のように湧き上がって、こぼれ落ちる水の流れ。言葉にも、すぐれた作品にもならない。

ただ、その詩情に身を委ねること。その詩情とともに、たゆたい、移ろうこと。どこへゆくという目的地もなく、連れ立っていること。ちょうど、思い出される音楽のように、心がいつも、静けさのなかで歌っている。

そういう詩情をもつことが、僕にとって人生で一番、大切なことだ。