2012年4月18日水曜日

くるりとベケット


 これは、くるりとベケットについてのエッセイなのですが、「くるりと」は副詞ではありません。「くるり」と「ベケット」について、なのです。「くるり」は、J-POPのアーティストで、ポップソングを作詞・作曲して、歌っています。「ベケット」は、サミュエル・ベケット。20世紀の風変わりな小説家・劇作家ですね。ノーベル賞の授賞式に欠席した、という逸話も有名です。

 くるりとベケットは、似ているな、と思ったのです。どこが似ているのでしょうか。だいぶジャンルは、かけ離れています。日本人にとっては、くるりの方が馴染み深いでしょうか。それとも、20世紀文学を代表する一人、ベケットと並べては、おかしいくらい、くるりの方がちっぽけでしょうか。ともあれ、僕としては、両方を知っている人(とりわけ、両方とも好きです、という方)がどれくらい、いるだろう、と気にかからないでもありません。(街頭アンケートをとったら、5%くらいじゃないでしょうか。)

 ですから、くるりとベケットの紹介から、始めたいと思います。
「くるり」は、バンド名ですが、結成当時から続いている、メインのメンバーは二人です。そのうちの一人が、ほとんどの曲の作詞・作曲を手がけています。岸田繁さんですね。

 YouTubeのリンクを貼ってみます。ついでに、歌詞も。代表曲の一つ、「ばらの花」ですね。

動画:http://youtu.be/lgVdcRvcUOs
歌詞:http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=66019

(以下、歌詞の引用は、JASRACの許可が要りそうなので、割愛して、内容をほのめかすだけにします。)

 この歌のうちで、歌い手は「ジンジャーエール」を飲んでいます。「僕ら」は「安心」だから、「旅に出よう」と言うのが、サビの部分で、全曲を通して、繰り返されます。途中、「君」とか「最終列車」が出てきますが、よくわからないまま、「ジンジャーエール」はこんな味だったっけかな、と気怠そうに連呼して、歌は終わります。

 だから、なんなのか、と言われると、よくわかりません。メッセージもなさそうだし、とりあえず、ジンジャーエールを、部屋で一人で飲んでいるような光景が浮かびます。安い、けど、ちょっと美味しい、庶民風に洒落てみました。そんな炭酸飲料です。そして、「安心なら旅に出よう」と持ちかける。わかったような、やっぱりわからない理由。

 「くるり」の歌は、どれもこんな調子で歌われます。つまり、全編を通して物語になっているわけでもなく(BUMP OF CHICKEN(バンド)は、物語風ですよね)、恋愛の機微や人生の問題に一生懸命なわけでもなく(Mr. CHILDRENは、そういうことに熱心な作風ですね)。かといって、単純明快に、「元気を出そう!」とか「僕らはみんな一つなんだ」とか……そういったありふれたメッセージを打ち出すわけでもないのです。

 それでいて、彼らは、まったくの「ナンセンス」を目指してはいません。80〜90年代のフリッパーズギターのヒット集や小沢健二を聞いていると、あからさまにナンセンスな歌詞が続き、それは2000年代のスピッツにも受け継がれているようなところがある、一つの潮流です。(かつてのバブリーな気前の良い雰囲気はもうないとしても。)

 そんなわけで、くるりのオリジナリティーは、とても捉えにくいものです。なんと言ったらいいのか、彼らの歌い方には、「思いつきをそのまま呟いた」ような歌詞と同じく、どこか自然と「話しかける」調子があります。その奇妙な日常性が面白いのです。他方で、彼らにないもの、それは「物語」「恋愛」「人生」といった大きなテーマ、読者への「メッセージ」、仕掛けとしての「ナンセンス」等々。彼らには、既存の「文学性」がないのです。

 ベケットもそうでした。「ゴドーを待ちながら」という戯曲は、とりわけ著名ですね。「ゴドー」を待つ人々が、とりとめのないやりとりを続ける。それで、終わり。「ゴドー」は来ないまま、終幕です。初演の時、パリの小劇場だったと思いますが、観客は、ちらほらと帰ってゆき(2時間くらい上演にかかったはずです)、終わりまで観た人は、ほとんどいなかったそうです。

 しかし、この「わけのわからなさ」が、かえって、とても面白いのではないか、と評価が高まります。この戯曲、そもそもタイトルの「ゴドー」が、人の名前なのかも、わかりません。ひょっとして、団体名なのか、ものの名前なのか。劇中では、触れられていないのです。ある評論家は、「ゴドー(Godot)とは、「ゴッド(God:神)」のことなのか」と、ベケットに質問したそうです。ベケットの答えは、「それなら、そう書いた」。

 ベケットの戯曲は、全集も出ていますし、「ベスト・オブ・ベケット」という3巻本の選集でも、読めます。僕はこちらで読みました。奇妙な男の一人語り、バナナの皮ですべる、体をもたずにしゃべる口、肩まで地面に埋まった女性が傘をさす、不条理とも奇妙とも言える演劇が集まっています。

 そこには、「文学的」な大テーマ、メッセージ、そして露骨なナンセンスさえ、見られません。戯曲の登場人物たちは、ちょうど、彼ら自身の日常生活を送るように、ふだんの調子で、話をするのです。ただし、だいぶ異様な状況下で。

 もっとも、ベケットの解釈は、さらに大きな多様性をもちうるでしょう。けれども、ここでは、ベケットの革新性を「厳しい現実がひっくり返った状況としての、奇妙な日常性」とまとめてみたいと思います。

 くるりとベケットは、それぞれ90〜2000年代の日本の閉塞、二つの大戦と異国での生活という、厳しい現実を目の当たりにして、芸術家人生を築きました。ベケットは、戯曲ならではの、また、彼ならではの芸術性で、現実をひっくり返すように、おかしな世界を描きます。くるりは、むしろ、ごちゃごちゃした現実の隙間へ、謎めいたフレーズで、ふとした日常性を紛れ込ませます。どちらの場合も、それは、奇妙な日常性です。

 くるりとベケットは、どちらも、厳しい現実をロマン的に美化しなかった。「醜悪化」もしなかった。そこに救いを求めもしなかった。また、現実を「超えて」いかなかった。(超現実。シュルレアリスム。)そして、まったくのナンセンスへと逃避もしなかった。そうした意味で、彼らは既存の「文学性」を、それぞれの分野で、つまり、J-POPと演劇界(ないし「文学界」)で、乗り越えたのだと思います。

 くるりもベケットも、どこか地に足がついているようなところがあります。「どうして?あんなにわけがわからないのに?」ーーそう、それは、現実に密着しているという意味でのリアリティではありません。けれども、芸術の高みから世界を見下ろさないのです。一人の人間が、そこを歩いている、と言いたくなるのです。

 僕らは、厳しすぎる現実のさなかで、「くるりと」きびすを返せるのではないでしょうか。気の抜けた「ジンジャーエール」のような、曖昧で、奇妙な日常性の中で、なにをするでもなく「ゴドー」を待ちながら、当たり前みたいな顔をして生活することが、できるのかもしれません。それは、夜空に輝く星のような希望ではなくて、ささやかな石ころのような希望なのでは、ないでしょうか。

おわり

追記:くるりのCDでは、ベスト盤(2つあります。)が、入門にはおすすめです。また、ふつうのアルバムからは、「ワルツを踊れ」を勧めたい気がします。クラシック風の音作りと、バラードからロックまで幅広い曲調、わかりにくい歌詞から単調な歌詞まで。くるりの個性が、とりわけ面白い形で出ていると思います。

2012年3月31日土曜日

ホワイト・シューベルト

シューベルトは白い。真っ白い。それは、曇り空の下の雪原のようでもあり、そこには寒さと死も横たわっている。 シューベルトは、1797年にウィーン郊外に生まれた。わずか31歳で人生を閉じる。1828年のこと。ベートーヴェンの生没年が、1770年ー1827年だから、ベートーヴェンの晩年に、ちょうどシューベルトの短い人生がかぶっている。シューベルトは、ベートーヴェンを尊敬し、どこかで彼の精神を引き継いでいた。

シューベルトは、歌曲で有名だけれど、「魔王」「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」……これらの有名なタイトルは、みな暗い歌詞を持っている。魔王では、父親を呼ぶ子供の命が尽きる。水車小屋の娘では、青年が、恋に破れて小川に語りかけ、おそらく死ぬ。(詩の解釈によるけれども。)そして、冬の旅には、主人公の死こそないが、かえって、それゆえに一切の希望が絶たれた感だけが残る。 もちろん、シューベルトの「愛らしい」歌曲には、ゲーテの詩に基づいた作品、力強い、またはやさしい、自然美を歌った、明るい曲調の歌曲もある。なにより、「未完成」がとりわけ有名な、あの交響曲たちは、どれも晴れやかでわかりやすい音色がする。けれども、僕には、シューベルトは、生涯の制作を通じて、真っ白な死と、向かい合っていたように思えてならない。

シューベルトをめぐるエピソードを二つ。

一つは、友人との会話。「僕が死んだら、家の前に立て札が立つよ」と、シューベルトは言う。友人は笑った。「それは、有名な音楽家の話だろう?」シューベルトの答え。「"貸し家あり"ってさ」。

もう一つは、ベートーヴェンが死んだとき。残念ながら、いま手元に資料がないので、正確な引用ではないが、シューベルトは、悲愴な調子で「ああ、ベートーヴェンが死んだ。あとは、僕が書くしかない」といった台詞を吐いたそうだ。
(二つのエピソードの出典は、『シューベルト』,喜多尾道冬,1997,朝日選書)

「貸し家あり」の方は、ユーモラスである。面白おかしい。しかし、そんな立て札しか残らない、という笑いには、うら悲しいアイロニーの影が見える。他方で、ここには、シューベルトの自負心も窺えると思う。彼は、おそらく、本当には、「いや、自分の死後、なんらかの記念碑が残されるはずだ」という妙な確信を抱いていたのではないか。そうでなければ、たとえ冗談であるにせよ、「僕が死んだら、家の前に立て札が立つよ」というような、誇大妄想的な出だしで、冗談を言わなかっただろう。
その自負心を裏付けると思えるのが、ベートーヴェンの死に際して、自分がその後継だと、吐露した言葉だ。それは、彼にとって自信や誇りというより、使命のようなものだったろう。

シューベルトは、おそらく、自分がベートーヴェンのように「偉大な作曲家」になれるとは、思っていなかった。「偉大」というのは、音楽の水準で、どちらが偉い作品か、という話ではなく、音楽を作る根源にある、精神性の話だ。シューベルトは、不撓不屈のベートーヴェンにはなれなかった。けれども、天賦の才能に基づいて書くことはできた。今風の言葉で言えば「自己実現」や「自己表現」のために音楽を作るのではなく、「音楽そのもののために音楽を作る」という精神、いわば自己を捨てて、ちっぽけな感情を度外視して、芸術の持ちうる普遍性のために、作曲するということ。そういう偉大さを、ベートーヴェンと響き合うようにして、シューベルトは持ち合わせていた。そんな作曲ができるのは、あの「自己」や「過度なヒューマニズム」が濃厚に渦巻いていたロマン主義の時代にあって、ごくわずかな天才だけであった。シューベルトは、自分がその一人であると、どこかで自覚していたように思う。(シューマンは、シューベルトと似た者同士のように語られがちだけれど、僕には、その精神性において、対極に位置するようにすら、思える。)

そうして、晩年のシューベルトは、「冬の旅」という歌曲集と、「後期作品」と呼ばれる、3曲のピアノ・ソナタを遺した。冬の旅については、さきにも触れたけれども、歌詞ばかりでなく、曲調にも救いがない。そして、3曲のピアノ・ソナタについては、ヴァレリー・アファナシエフというピアニスト兼詩人評論家のCDが、参考になる。それは、ものすごく長い録音(通常の演奏の1.5倍ほど、時間がかかっている。)で、解説には、それら作品の「天国的な長さ」(もともとは、シューマンがシューベルトを批評した言葉)について、むしろ地獄のようであると、述べている。なるほど、アファナシエフの演奏からは、延々と引き延ばされる旋律の奥底で、真っ白な悲しみが歌っているのが聞こえる。行き場もなく、ベートーヴェンのように激情となってほとばしることもなく、ただただ、真っ白い雲の中を、果てしない階段を上り続けて、そしていつまでも天国に辿り着かずに、いつしか終曲する、というような。

「貸し家あり」のユーモアは、僕には、「ブラック・ユーモア」という既存の言葉になぞらえて言えば、「ホワイト・ユーモア」と名付けられるように思える。そして、彼の最晩年の作品群、「冬の旅」と3曲のピアノ・ソナタを聴いていると、僕は、作曲するシューベルトは「心」をもたなかった、と言いたくなる。ただただ無意味にうらぶれてゆく生のうちで歌い続ける、美しい旋律は、なにかを表現した美しさではなく、感情を抜きにして、「心」なしに、純粋に音楽的にのみ、ただ音符を並べて、紡がれた旋律であるように思えてならない。そこには、生の温度をなくした、雪のように真っ白な心が、見透かされる。そんな風に、シューベルトについて考える。

2012年2月17日金曜日

『珈琲と吟遊詩人』への訂正コメント


『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』を刊行後、内容の訂正に関するコメントを複数いただきました。それを取り急ぎ、以下に掲載いたします。

先日、リュート協会の宮武隆様(理事)から、拙著『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』に関して、会報誌に紹介したいとの連絡をいただきました。やりとりの結果、宮武様が、渡辺広孝理事長による本書への批判的なコメントを、簡潔に編集・まとめて送ってくださいました。これは、当の会報誌にも載る内容だそうです。許可を得て転載いたします。

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***渡辺理事長のコメント****

・著書の中に「リュートで単弦が複弦になったのも、15世紀の半ばから後半にかけて、と見られています。」と書かれていますが,これはリュート界の定説とは違います.これ以前の古い絵画などの視覚史料ではほとんどのリュートが複弦であることから,むしろヨーロッパに伝わった当初から複弦であった可能性が高いと思われています.

・ドイツのリュートについての記述「ドイツでは15世紀中頃には6コースまで付け加えられたようです」も気になります.ドイツ式タブラチュアの記譜法が最初は5コースリュートに対して作られているからです.従って最古のタブ譜は5コース用です.つまり15世紀中頃はまだ5コースだったことになります.

・また,放浪芸人が維持するにはリュートは高価すぎるので、持っていなかったと考えられることを、指摘しておきます.

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以上です。

最後の一点、「放浪芸人はリュートを持っていなかった。(リュートは高貴な人々の楽器だった。)」については、疑問が残ります。たとえば、「ダンスへゆく人々を導くリュート奏者」の図像(拙著 p.126)に描かれたリュート奏者が、宮廷で演奏をするような高貴な人物だとは、思えません。庶民(放浪芸人)にも、安物のリュートが出回っていた可能性は、あるのはないでしょうか。

また、リュート協会とはべつの方面からも、コメントをいただいております。東京大学、科学史・科学哲学科の先生からは、拙著の「中世ヨーロッパの外科は、床屋がやっていた」(p.133)という記述に関して、訂正をいただきました。中世ヨーロッパでは、外科手術は、「床屋」の副業のほか、専門の「外科医」によっても為されていたとのことです。

この場を借りて、ご指摘いただいたことに感謝いたします。
誠にありがとうございました。

2011年12月2日金曜日

世界はいたるところに穴ぼこが空いているのか——村上春樹と反時代的考察。


現実世界に空いた穴ぼこ
 『ねじまき鳥クロニクル』という小説で、村上春樹は、自分の小説のもっとも根底にある思想を、典型的なシチュエーションで表現している。それは、主人公が、井戸の底に降りたところ、上からはしごを外されて、蓋を閉められるという状況である。真っ暗な穴の底で、彼は閉じ込められる。

 井戸の底。それは、ふだんの世界と切り離された、深い暗がりであり、出口がなく、そこにいることは、楽しくもなければ、悲惨というほどでもない。あえて言えば、存在することの虚無をひしひしと感じる、奇妙な経験である。そして、いつ出られるか、自分では検討もつかない。

 ここで、もっと抽象的に考えることができるなら、この「現実世界」には、沢山の精神的な「落とし穴」が空いていて、そこにふっと落ち込むと、人は、ちょうどあの主人公のように「井戸の底」に落ち込んだ心理状態になるのだ、と言えないだろうか。

 それは、おそらく、「孤独」とか、「さみしさ」、「かなしみ」、「生の無意味」、「実存の危機」などとも、名付けることができるだろうが、そのどれとも、微妙にニュアンスがちがう、特異な体験である。村上春樹の小説には、異世界がよく出てくるが、まさに、現実世界を超えてファンタジーへと飛翔したくなるような、現実世界の外にはみ出してしまった、と言いたくなる体験である。

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ニーチェの「反時代的」態度
 哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、24歳の若さで、バーゼル大学の教授になる、という異例の抜擢をされた。古典文献学の教授であった。ところが、その2年後、処女作『悲劇の誕生』を執筆すると、学者たちから大きな非難を浴びて、あっという間に学界の日陰者になってしまう。彼は、文献学において、きっちりと仕事ができたにもかかわらず、「アポロン的」「ディオニュソス的」という、思想史に残る概念を発明した、革命的な本を出版したために、「全然、アカデミックじゃない!」と、当時の学界から拒絶反応を受けたのである。(たしかに、この本の主題が、ギリシャ悲劇なのか、哲学なのか、音楽なのか、一見、よくわからない。だが、少なくとも、文献学の本ではなさそうである。)このとき、彼を批判した人物には、「ルネサンス」研究の先駆者・第一人者であった、ヤーコプ・ブルクハルトも含まれる。
 その後のニーチェは、身体の調子を崩しながら、一人きりで、スイスやイタリア、フランスをあてどもなく旅して、哲学的な考察を書き留める、そんな放浪の哲学者となる。

 『反時代的考察』は、ニーチェの第二の著作である。さきの処女作で、学界から追放されるような結果を呼んだ彼は、その後の人生と著作の方向性を、すでに予感していたかのように、次の本を『反時代的考察』と名付けた。これは、素晴らしい命名であると思う。

 少なくとも僕にとっては、面白いことに、この本は、ダーヴィト・シュトラウスという、当時は有名だったが、後世にはとくに名前を残していない作家と、その著作への激しい批判から始まる。(第一章。)その後、哲学者のショーペンハウエルや、音楽家のリヒャルト・ヴァーグナーについても論じるのだが、読み終えてみると、結局、どこが「反時代的」なのか、明示されていないことに気がつく。そもそも、「反時代的」という耳慣れない言葉を(おそらくニーチェの造語で)使っておきながら、それがどういう意味なのか、説明されていない。

 ところが、ニーチェは、その人生を瞥見してもわかるように、学界とか論壇とか、権威とか組織とか、そういったものと決別して、思想家の人生をスタートさせた人である。注意深く見ると、まさにニーチェの生き様そのものが、「反時代的」とはなにか、を告げていた。

 時代は、いつも何人かの寵児を生み出しながら、その人々を先端として波打ち、あらゆるものを押し流そうとする。それは、ことに無意識に共有される思想において、そうである。ニーチェが、非難した、なんとかシュトラウスは、いっときの有名人にすぎなかったかもしれないが、ニーチェの論説の矛先は、彼にというより、彼を筆頭とする時代の流れ、思想の風潮、巨大な潮そのものに向けられていたことは、まちがいがない。

 人は、時代の潮流を注意深く読み解きながら、工夫して、それに逆らわなければならない。そこで、無意識に共有されてゆく思想に。それが、「反時代的」という態度である。けれども、なぜ、「反時代的」でなければならないのか?——ニーチェなら、こんな風に答えるだろう、あの独特のアフォリズムで。

「われわれは反時代的でなければならない。なぜか? 否。むしろ、どのようにして。」 (ドイツ語を知っている人は、試みに独訳してみてほしい(笑)。ぎゅっと引き締まった文体で、明快に断言する、あの独特の口調を再現できないだろうか。日本語だと、少し間が抜ける。)

 おそらく、「反時代的」というのは、思想家の気質みたいなものなのだ。「時代に乗せられる」ことに抵抗がない人を、彼は、あえて説得しようとはしないだろう。むしろ、懐疑的な同志に向かって、檄を飛ばすにちがいない。「なぜか」は問題ではない、「どのようにして」反時代的であるかを考えよ!と。

 そして、かくして私は、ニーチェの「反時代的」態度に倣って、現代のダーヴィト・シュトラウスである(?)村上春樹を扱うことにする。

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世界はいたるところに穴ぼこが空いているのか。
 「世界はいたるところに穴ぼこが空いている。」——そんな風に、村上春樹の主要な思想を一つ、翻訳することができるだろう。

 僕らは、日々、ありきたりの、平凡な、なんの変哲もない、日常を送っている。それは、退屈で、ときに苦痛で、わりと凡庸で、没個性的でさえ、ある。けれども、人は、その平板な地面に、ぼこぼこと空いている穴に、ふとしたはずみで落っこちる。そうすると、日常世界から遮断され、空虚さを抱えた自分と向き合い、なすすべもなく、ブラックホールのような暗闇に包まれる。その暗闇の正体は、死かもしれず、心の傷かもしれず、人生の虚無かもしれず、歴史の暗部かもしれない。

 ここまでのところを、村上春樹は、ある程度、意識的に書いているだろう。時代を先取りする鋭敏な感性で、多くの人たちが、心の底でぼんやりと思っていることを捉えて、小説という形にする。彼は、時代の波頭に立っている。けれども、そこから先のことに関して、村上春樹は、たぶん気づいていない。自分が、まさに時代の潮流に乗っかることで人気を博しているだけで、それをよりビッグウエーブにする一装置として働いているにすぎないことを。そこには、まったく、一人の作家として立ち上がり、時代に抗うという「反時代的」な観点が欠けているということを。その点では、村上春樹ほど没個性の作家はおらず、彼に小説を「書かせて」、それを「売り上げて」いるのは、無名の巨大な波としての、時代そのものである、ということを。

 ついでに、彼が小説の中で「穴ぼこ」を表現する手段、すなわち、抽象的な「穴ぼこ」を表現するための、具体的なシチュエーションを考察すると、上記の点は、いっそう明白になる。彼が用いるシチュエーションは、もっぱら「性」と「暴力(残酷)」である。性には、秘密がある。暴力には、果てしないところがある。こんな文学史上のステレオタイプの安直な転用によって、彼は、「現実世界」を超えた穴ぼこを表現するわけである。この紋切り型は、初期(最初期を除く)から後期の1Q84に至るまで、変わらない。

 村上春樹の読者は、こうした「性と暴力のファンタジー」作品群に触れることで、「穴ぼこ」を疑似体験する。そうして、ふつうに「孤独」とか「さみしさ」と言うだけでは、表現し切れない、と思う、虚無とか、救いようのない孤立、感情の混沌、心の暗部を、村上春樹の作品に見出す。だから、本が売れる。

 こうして、世界に「穴ぼこ」が増えていく「悪循環」を前にするとき、反時代的な思想家たちにできることは、新しいモデルを提示することである。もう「世界はいたるところに穴ぼこが空いている」と言わないこと。そして、村上春樹という表象を越えて、時代そのものの潮流に立ち向かって、思考すること。「世界は、起伏のある連続した平面である」と。

 実際に、社会の具体的な問題においても、日常のさまざまな場面においても、「穴ぼこ」に落ちた、と思い込みたくなる人を助けるのは、「人間の陥る状況は、それぞれだが、どこかでつながってもいる」、「あなたと私はちがっても、そこに断絶があるわけではない」、「ある個人の性格や考え方に、異常や奇妙さがあるとしても、それはグラデーションをなしているのだ」といった「連続」の思想である。
 それに対して、人と人との間に不連続を持ち込む思想は、「精神的な、あるいは神経的な障害を抱える人は、健常人とはまったくべつである」、「社会や共同体に馴染めない人間は、「おかしい」人たちである」、「人に言い難い考えや感情を抱いてしまう自分は、異常な人間である」といった、断言や、レッテル貼りや、人間の分類を始める。(なお、1990年代以降、流行っている「(臨床)心理学」は、この潮流を代表する、もう一つの動きである。)

 どちらの思想を選ぶのか。どちらが倫理的によりすぐれているのか。その問いかけには、具体的な生き方を通してのみ、答えられる。僕ら一人一人は、大作家ではなくとも、小さな思想家でありうるのだから。

 こうしていま、反時代的であることを志向する人たちは、「世界はいたるところに穴ぼこが空いている」と言おうとする人たちに抗って、「世界は、起伏のある連続した平面である」ことを、日常生活の一つ一つの言葉で、周りの人に対する態度で、伝えて、表現することを止めない。


2011年11月14日月曜日

「くらしのこよみ」というアプリの面白さ


 平凡社が制作している、iPhoneiPadアプリ「くらしのこよみ」が素晴らしい。インターネット上でも、ときどき話題にのぼっている。

 いまや、iPhoneiPadAndroid端末には、数十万のアプリがあると言われる。一アプリ、一機能だから、ちょこっとした新しい発明がなされるたびに、アプリが増えていく。その中から、電子書籍のリーダー、また、電子書籍そのもの(一冊の本)を、アプリにする動きも出てきた。

 「くらしのこよみ」は、半ば「電子書籍」と言っていいようなアプリである。作りはシンプルで、横スクロール画面に、文章と写真と絵が配置されている。スクロールなので、ページはめくらない。5分ほどで全体を読み終えられる。内容は、時節に合わせた季語、俳句、旬の物、行事などの紹介。七十二候※に合わせて、内容が更新される。

   旧暦で、一年を七十二に分けた5日ないし6日の期間を、時候の言葉で表したもの。

 この「くらしのこよみ」は、3つの点で、今後の電子書籍のヒントとなるような、楽しい可能性を秘めている。

1)すぐれたデザイン————横スクロールとコンテンツの配置
 縦書きに、横スクロールという形式が、まずiPhoneiPadにぴったりである。実物の本でページをめくる時の、小さな「断絶」がなく、流れるように、軽いタッチで内容を先送りできる。
 そして、中身はと言えば、味わいのある写真と、読みやすい文章、ときおり挟まれる博物誌的な絵、といったコンテンツの多様性が、飽きさせない。和を基調として、デザインに統一性があるのもよい。このあたりにも、縦書き&横スクロールが利いている。


2)適度な短さ————アーティクルを読む感覚
 「くらしのこよみ」の内容は、テンポが良い。文章それ自体は、含蓄が深く、けっして軽々しいものではないが、一つの話題が十行ほどの短さであること、絵や写真との組み合わせによって、自然に読み進められる気持ちの良さがある。
 この巧みさは、「適度な長さ」というより、「適度な短さ」と言える。それは、ちょうど「ブログの記事を一本、読む感覚」「数ページのエッセイを読む感覚」などに似ている。または、「電子版の新聞の記事」と比較してもよい。いずれにせよ、「記事」=「アーティクル」を読む感覚、と言えるだろう。
 現代人は、長い文章を読む時間をなかなか取れないかもしれない。また、iPhoneのアプリを立ち上げるのは、電車の中のちょっとした時間かもしれない。「くらしのこよみ」は、そういった生活にちょうどよい「短さ」なのである。


3)定期配信————web時代の「ゆったり」ライフスタイル
 ここで、「くらしのこよみ」アプリを利用する仕組みを確認しておくと、(1)まず、アプリそのものをダウンロードする。(2)その後は、アプリを立ち上げるたびに、その時節のコンテンツがダウンロードされる。そのコンテンツが、七十二候の分、用意されている。
 こんな風に「定期配信」されるわけだが、これも「くらしのこよみ」を愛用する要因の一つになる。ふと気づいてアプリを立ち上げると、コンテンツが新しくなっている。5〜6日おきというのは、よいペースである。Web時代にあっては、ゆったりしているが、遅すぎはしない。そのため、ユーザーは、「毎日欠かさず」ではなく、「思い出したときに、なんとなく」気に掛ける。「くらしのこよみ」は、大げさに言えば、そういう「ライフスタイル」の提案とセットで享受される。


 このような「デザイン」「短さ」「定期配信」といった要素は、電子書籍を制作するうえで、重要なポイント、ないし、貴重なヒントになると思われる。
 「くらしのこよみ」は、和の文化的な香気が漂うアプリである。知性あふれる内容である。そして、二十四節気と七十二候に基づいた区分というだけで、一般の読者には、かなり敷居が高い気もする。たぶん、「くらしのこよみ」を全連載分、一冊にまとめれば、立派な本が出来上がるだろう。それは、分厚くて、文化的な本になるはずだ。いま、ポップで、わかりやすく、適度に面白おかしい本が、多くベストセラー化する時代にあって、このような内容の充実した「本」が、iPhoneiPadアプリという形で、72分割されて、楽しまれているということ。
 都会でスマートフォンを片手にせわしい日常を送る人たちに、季節の「声」とともに、ゆったりとした気分を提供しているのだとすれば、興味深いアプリである。


おまけ。
 もっとも、「くらしのこよみ」が、即座に電子書籍のビジネスモデルを提示する、とは言えない。なんといっても無料のアプリであるし、広告はほとんどなく、平凡社のような人材と知の蓄積がある出版社だからこそ、できるサービスだと考えられる。
 もし、こんな風な電子書籍をビジネスにするのなら、いわゆる「マネタイズ」(無料のネットサービスを収益事業化すること)をどんな風にやっていくか、考えどころだと思う。これは、電子書籍一般に言えることではあるけれども。ただ単に、電子版の「本」に値段をつける、というやり方ばかりでは多様性が見込めないだろうから。


2011年11月4日金曜日

スナフキン・ライフ


 ノマド・ワーキング。ここ2年くらい話題になっている。決まったオフィスを持たず、移動しながら、自分の好きな場所で働く。

 ノマドは、「遊牧民」の意味。典型的には、デザイナー、エンジニア、記者、フリーランスといった人たちが、ノートパソコンを主力のアイテムとして、カフェで仕事をする、というスタイル。

1)ノマド・ワーキングでは、とくに電源と無線LANの使える環境が好まれる。そういうカフェやファーストフード店を、ノマド・ワーカーは拠点にする。

2)持ち物としては、ノートパソコンとスマートフォンは必携。それに、iPadなどのタブレット端末や、ネットブック、充電器、外付けハードディスク、たこ足配線や、USBハブが付け加えられる。持ち物は、軽量級から重量級まで、ノマドもさまざまらしい。

3)もう一点、重要なのは、クラウドサービスだ。クラウドとは、サーバーにデータを預けて、どこからでもアクセス、ダウンロードできるサービスのこと。Sugarsync, Dropbox, Evernoteなどは、ノマド・ワーカーご愛用の定番クラウドサービスだ。これによって、外付けハードディスクを持ち運んだり、メールやフラッシュメモリでデータをやりとりする手間が省ける。

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 さて、ノマドのワークスタイルを紹介すれば、ざっとこんな感じだと思うけれど、そもそもノマド・ワーキングというのは、そんなに魅力的なワークスタイルなのだろうか?

・アイデアが湧きやすい。・隙間の時間を有効に使える。・満員電車の通勤がない。・私服で働ける。・気分転換できる。・在宅ワークのように籠もらないで済む。

といったメリットが挙げられる。そのほかに、「カフェで仕事をするのは、カッコイイ」といったトレンド的な理由もあるようで、これも大きいのではないだろうか。

 ところが、僕はどうも少し自由な感じがしない、このノマド。たしかに、憧れる部分もあるし、オフィスでスーツよりは、快適だと思うけれど。

 最近、スターバックスは、電源や無線LANの提供に力を入れているようで、ノマドたちが、ノートパソコンを並べて、画面とにらめっこしている店内風景も見られる。だが、ちょっと異様だ。以前のくつろいだ雰囲気の方が良かった、という気持ちにもなる。

 もっとも、ノマドが良くない風潮だと言う気はないし、むしろ、ノマドのためのカフェ兼オフィスみたいなものが生まれるのは、面白い風潮だと思う。また、「ノマドは、24時間、自己管理というケースもあり、タフでないと続かない」といったデメリットも、ここでは置いておこう。

 なるほど。ノマドは、おそらく時代の最先端を行っている。だけど、哲学者のヴィトゲンシュタインは、ワーグナーを評して言った。「時代の一歩先を行く者は、いずれ時代に追い越される」と。

 あとは、美学の問題になる。ノマド・ワーキングという、ライフスタイル。それを追い求めることは、素敵なことだろうか?

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 ここで、僕は、「スナフキン・ライフ」という、新しいワークスタイルを提案したい。それは、ノマドのスタイルからもっと逸脱する、別世界のライフスタイルになる、かもしれない……。

1)スナフキン・ライフは、ノートとペンを主たる道具として、仕事の成果を出すワーキング・スタイルである。アイデアの必要な仕事ほど、スナフキン・ライフに向いている。だって、ノートとペンは、アイデア・スケッチには、最適ではないだろうか。パソコン作業は、あとでまとめてすればいい。本物のスナフキンもまた、アイデアとなる「4つの音符」を書き留めておいて、いざ、時が来たときに、一気に旋律を作り出すではないか。
 ノートとペンの利点は、沢山ある。まず、電源が必要ないことだ。無線LANも要らない。昔ながらのドトールでも、仕事ができる。旅するスナフキンのように、どこにいても大丈夫。イーモバイルがつながる都会でなくてもよい。

2)スナフキン・ライフは、装備も少し変わっている。ノートを何冊か、ペンを数本、スケジュール手帳、メモ帳……そして、レターセット。

 本物のスナフキンは、ときおり、ムーミン谷に手紙を出すけれど、新しいスナフキンも、手紙を出す。メールの処理は、ストレスのかかる仕事である。いろいろ気を遣うわりに、業務的で、人間味がない。その点、手紙は、詩心や真心をそれとなく添えることができる。「人脈」や「ソーシャルネットワーキング」もいいけれど、もう少し深いつながりを築ける。
 ちなみに、とあるノマド・ワーカーは、電源のあるカフェを800件リストアップしたそうだが、郵便局は、全国に24500件ある。ポストは20万くらいだから、スナフキンがどこからでも手紙を出せることがわかる。

 だけど、ここまで聞いて、「それは、アナログへの逆行にすぎない」と思われたかもしれない。いや、そうでもない。スナフキン・ライフの基本装備には、スマートフォンが含まれる。フィーチャーフォンとの2台持ち、3台持ちでもよい。

 なぜなら、スナフキンにとっては、通話が仕事のベースになるのだから。Skypeや、各種の無料通話アプリを使いこなし、料金プランを選び抜いて、スナフキンは、電話をする。直接、声でやりとりをする方が、手っ取り早いし、こまわりが利く。いくぶんか、人柄も伝わる。
 そもそも、ノマドの弱点の一つは、電話である。静かなカフェでは、電話を掛けることができない。一旦、外に出なければならない。パソコンを席に置いておくのもリスキーだ。これは、ノマド・ワーカーに共通の悩みである。
 それに対して、スナフキンは、「電話」「手紙」「直に会う(打ち合わせ)」の3つを仕事の基本的なスタイルにしている。かんたんな連絡や意思疎通は「電話」で、書類のやりとりや、正式な依頼、挨拶などは「手紙」で、重要な話は、直に会って「打ち合わせ」をする。

3)三番目に、クラウドの話をしよう。クラウドは単純に便利なので、スナフキンも利用するが、たいして使わない。なにより、スナフキンは、自分の「データ」をすべて紙媒体で、ノートやメモ帳として持ち歩いているのだから、クラウドする必要がない。紙は、重いしかさばるだろう、と思われるかもしれない。だが、本物のスナフキンは、テントだって、コーヒーを淹れる器具だって背負って旅をしているのだから、それぐらいは当然だ。ノマド・ワーカーは、「クラウド」かもしれないが、スナフキンは、「グラウンド」なのだ。

 スナフキン・ライフは、ざっと以上のようなものである。

「だけど、ノートパソコンを使わないなんて、現代的でないし、非効率的だ。」

 こんな声も聞こえてくるかもしれない。いえいえ、スナフキンは、実はデスクトップ・パソコンを持っている。スナフキンは、一日を終えて、家に帰ってから、または、一週間ごと、さらには、3ヶ月や半年にいっぺん、まとめてインプット/アウトプットをする習慣がある。それまでは、スマートフォンで、ニュースチェックをしたり、記事をスクラップしておく。そういうわけで、スナフキン・ライフは、べつに文明の利器から離れているわけではない。ただ、ちょうど、本物のスナフキンが、11月になるとムーミン谷を旅立ち、春になると帰ってくるように、「季節労働」的な側面が、一日のうち、一ヶ月のうちにも、あるだけなのである。

 これで、「スナフキン・ライフ」という新しいワークスタイルの提示は終わりである。これが、半ば冗談として、半ば真面目に(ノマドを相対化する試みとして)、受け取られることを願っている。