10分か15分で100ページ超をめくり、すらすらと入る気がした。
西田の時代には、「日本の哲学」がまだ樹立されていない。
そこで、西田幾多郎は、みずからの言葉「純粋経験」と「絶対矛盾的自己同一」をよりどころに、汎神論とキリスト教と日本の禅を撚り合わせて一つにする。それが善だ。
まずは、スピノザとゲーテによる、自然を愛する汎神論(すべては神の現れである)。
次に、キリスト教による厳しい苦しみの生は、実存を生きることに連なり、それはヘーゲルの弁証法を支えに、無限の対立を終わりなく超えてゆく生になる。
そこに、無を尊ぶ日本の禅が加わり、そのすべてが統一される。
なお、汎神論にはおそらくグノーシス主義も含まれており、実存の弁証法には古代インド思想も融合されている。最後に洋の東西が統一される。
その真実在にして至善の境地が、西田の探求した「善」なのだろう。
本の結びは、「(神は)我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。」
こんな風に、100ページ超で全世界の哲学史をぎゅっと融合させた西田に、さらに乗っかるようだが、その至善の境地、自然そのものであることは、そのまま遊戯の境地だと感じる。
ということで、『善の研究』の結論を、遊戯哲学に融かしてしまいたい。