2020年5月12日火曜日

【エシカル/哲学】遊戯と還元、『遊戯哲学博物誌』のその後


遊戯の思想は、還元を目指している。
「なにもかも遊び戯れている」という「万物が遊戯する」状態は、還元の究極を示している。

ここでは、『遊戯哲学博物誌』のその後を語りたい。

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ものを作ること、使うこと、捨てること、これらは「酸化と還元」で言えば、「酸化」に当たる。生物や化学の「合成と分解」で言えば、「合成」だ。生産、消費、廃棄はみな酸化であり、合成だ。ぼくらにとって「目に見える」「かたちのある」活動はすべてそうだ。

もっと言えば「大量消費社会に反対!」と声を上げ、生産・消費・廃棄を批判することさえ、広い目で見れば「酸化」的な活動の一環だ。

このように実質のある営みは、みな酸化で、合成なのだ。

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ぼくらが地面に捨てたものは微生物が、菌が分解する。大地へと、なにものでもない状態へと、「還元」される。だが、物質文明はどんどん酸化を加速させるため、「還元」が追いつかない。プラスチックは大地にも海にもなかなか還らない。核廃棄物は1万年、2万年と眠らせなければならない。

いま、難しいのは分解と還元を大切にすることだ。

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言葉の世界、とくに「言論」という意味で「ロゴス」の世界にも、酸化と合成はいたるところにみられる。しかし、分解と還元は追いついていないように見える。なにかを主張し、言い立てたい言葉があふれ返る。

「遊戯」の思想とは、実際にはどんな主張や意見でもなく、むしろ、あらゆるロゴス(主に合理的な言葉たち)を「還元」するものである。

ことばを大地へ還し、みずからの言葉も永遠の海へ還る。または、宇宙へと。それが遊戯の思想である。

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中国の古典で言えば、老子の「無為」、莊子の「遊」は還元の思想だった。それは「道」へと還ることばだった。現代思想では、デリダの脱構築は、おそらく徹底的な分解と還元を目指していた。

古代ギリシアの悲劇では、ドラマが繰り広げられたあとで、カタストロフにおいて英雄が滅んでいく。アリストテレスはそれを浄化作用(カタルシス)と考えた。

カタストロフのあとにはまた無が訪れる。終わって、始まりの前に至る。カタルシスにおいて「清められる」のは、神話世界において示された酸化と合成であり、それらは分解され、還元される。

無と言えば、般若心経は「色即是空」においてこの「色(しき)」の世界を「空(くう)」へと還す思想だったのではないだろうか。『五輪書』が重視する「空」もまた、作為と力みと余計な意図をすべて除き去る、空と無の思想ではないだろうか。

禅の「空」も連想されるが、禅は思想ではなく、どこまでも実践だ。


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遊戯は、そうした分解と還元を司る。

だから、遊戯の哲学には「意味がない」とも言える。よく「哲学や人文学は役に立たない」と言われるが、もっと真正な意味で、遊戯の思想は、言論と観念と体系を構築するうえで「なんの役にも立たない」のであり、分解と還元をするのみだ。

そして、「エシカル」もまた酸化と合成に抗い、還元を思う。エシカルとは遊戯する還元である、と言えるかもしれない。

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遊戯する者は、常に大地へ、海へ、宇宙へ還る。
遊戯とは永遠の循環であり、終わらない輪を描くものだ。