ある時、思った。いまは地獄へ降りるのだ、と。
地獄のJourney. 詩聖ダンテの後を追う。
水先案内人はランボオだ。
「閻魔の前のなんという夫婦。おれはアルジェへ行くぞ」
地獄は見慣れた風景で、懐かしいほどだ。
何年もここを彷徨ったのではないか。
我欲がむらむらと沸き起これば、そこが地獄の入り口だ。
いや、奥底だ。すでにそこを這いずり回ったのではないか?
「地獄とは利己心だ」とランボオは述べた。
「おまえにはまだまだ冒険が足りない」。
サタンが地獄の入り口に刻んだ文句はこうだ。
「汝ら、この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
そうか。なんのために希望を捨ててしまったのか、
いまになって私は気がつく。
煉獄は晴れやかな山の麓だ。だが、そこに人間たちがうめいている。
「わかるか。人間とは苦しむものだ。他者の苦しみこそ、煉獄だ」
そう、ランボオは言った。そこには同情の欠片もなかった。
ランボオは噛み締めていた枝を一本、吐き捨てた。
ああ、ひとの苦しみが見えるということは。
だがしかし、それは自分の苦しみしか見ない者には
見えないものだ。誰かがいて、初めてひとの苦しみを知る。
病気と、ひしがれた子供と、破れた絆にしがみつく大人たち。
私が煉獄を抜けた時、そこにランボオはいなかった。
代わりにベアトリーチェの声が聴こえた。音もなく、胸のうちに。
「透明な私の影を導きに、天上界へ上がってきなさい」
こうして天国の入り口に立ったが、白い光のほか、なにもわからなかった。
ベアトリーチェは姿を閉ざした。しかし、その手の閃きは「前へ進め」と示していた。
代わる代わるにさまざまな影が兆した。みな笑顔を浮かべ、思いの内を語っては消えた。
「これほど多くの楽しさに、いったいなんの秘密があるのだろうか?」
いつしか私はただ独りで立ち尽くしていた。
そこへ、屈託した若者が通りかかる。
腰が曲がり、腕をだらりと下げ、にこやかな表情でこちらを振り向いた。
「私には未来があります。長い年月が私になにをしてくれるでしょう?」
そして、ひょこひょことスキップをして立ち去った。
「おまえにも心当たりがありませんか」とベアトリーチェが語りかけた。
私は切なる思いを抱えてはるか天界の光を見た。
白い明るさに満たされた高い気圏へ、星空のはるか上へ
私はベアトリーチェの力によって引き上げられた。
天の高みに聖マリアが座っていた。ベアトリーチェはそのかたわらに立っている。
「あなたの魂は純粋な気圏に届こうとしています」とベアトリーチェは告げた。
「それを純粋な火と化して、天の光に変えなさい」
言われた通りにすると、見上げたところにひとりの後ろ姿が現れた。
そうだ、ダンテが天上界を歩んでいた。トスカーナを放浪する背中が幻となって見えた。
「おまえもついてこい」と振り返った目が言った。
「地獄を巡り、煉獄を渡り、天国へ昇って、いま私は地上を彷徨うのだ」
私もまた、詩聖ダンテの後を追い、この地上の旅人とならんことを。